海と空

天は高く、海は深し

書評  藤原正彦『国家の品格』(1)

2006年05月28日 | 書評
 

およそ批判や批評の対象として取り上げる科学論文なり学術論文が、理論的に価値のある著作であれば、そこで展開されている思想の概念、判断、推理は当然に精確なものであるはずである。

とはいえ、もちろん批判や批評の対象は、必ずしも科学論文、学術論文のみに限らない。詩歌や小説などの文学作品から絵画、音楽、また映画などの芸術作品なども当然に取り上げられる。だが、その際には、「純粋な」科学論文,学術論文を批判する場合のように、その理論を厳密に検証するということにはならない。学術論文を批判する場合と、随筆や宗教的著作や芸術作品を批評の対象とする場合とでは、当然にその方法も内容も異なったものになる。

とはいえ、批判とはいずれにせよ、対象作品を、批判者自身の価値観の体系のなかに取り組み、位置付けることによって評価することである。このことは同時に、批判者の判断力や認識能力など、その理論的水準自体が問われることでもある。だから、何よりも批判者自身が、その作品を批判し、批評する能力や資格があるのか、ということが当然にまず問題にされるだろう。また、その内容がどれだけの理論的な水準にあるか、その批評行為そのものによって批判者自身が批判されることでもある。

この藤原正彦氏の『国家の品格』はベストセラーにもなったそうだ。それにしても、この作品は、ジャンルとしては何に分類されることになるのだろう。作者の藤原正彦氏は数学者である。しかし、言うまでもなく、この著書は数学の本ではない。『国家の品格』という書名が付けられているけれども、国家理論などを厳密に展開したいわゆる国家学の書物であるということもできない。恋愛や愛国心などの人間の心理を掘り下げ追求した心理学書でもなければ、もちろん小説というジャンルに分類することもできない。

また、多くの個所で「論理」の問題が取り上げられているけれども、認識や存在や時間や弁証法などを問題にする哲学の本に分類するにも無理がある。

一読したところ、一冊の本としては、倫理を問題にした随筆か、あるいは愛国心などについて論じた道徳的な啓蒙書として捉えるのが妥当であると思う。愛国心(筆者によれば祖国愛)や倫理的な精神としての武士道を取り上げている。これが本書のテーマでもあるといえる。

「はじめに」(p3~6)のなかに、本書の全体の趣旨が簡単にまとめられているといえる。筆者自身のアメリカとイギリスでの留学体験が語られ、そこでの筆者の価値観の変化、すなわち論理偏重から情緒重視へと、さらに武士道精神の再発見へと心境の変化が語られる。それは、現在わが国社会においても進行しているグローバリズム、アメリカナイズの過程で、市場経済に代表される欧米の「論理と合理」に日本が身を売り、わが国古来の「情緒と形」を忘れ、それが日本の「国家の品格」を失わせることになったという筆者の問題意識が、その時代的な背景としてある。(p6)

第一章  近代的合理的精の限界(p11~34)

もともと「野蛮で遅れていた」西洋はルネッサンス、宗教改革、科学革命により理性が解放されて、ヨーロッパは初めて論理や近代的な合理的精神を手にし、それによって産業革命を起こし、世界の欧米支配が実現した。 (p16)

しかし、今日いわゆる先進諸国では、家庭や教育が崩壊し、犯罪が多発している。筆者の主張によれば、それは近代的な合理的精神が破綻したからだという。そして、帝国主義や植民地主義もその西欧的な論理であり、その論理が通っているからこそ非道なことも行われたという。

ここで、筆者は「西欧的な論理」とか「傲慢な論理」とか「美しい論理」「見事な論理」というように「論理」にさまざまな形容詞を冠してしているが、論理それ自体は、感情的な評価とは無縁なのではないか。論理においては正しいか、必然的であるかだけが問題にされるのではないだろうか。


筆者は「帝国主義の論理」や「資本主義の論理」を取り上げているが、それらの論理がどういうものであるのか、具体的に展開して説明しないで、その論理の帰結だけを見て、弱肉強食とか卑怯とかケダモノとか下品とかといったことばで評して非難しているだけであるのは、単なるレッテル張りで、具体的な説明の展開がないだけ物足りない。この分野を専門としないことから来る限界かもしれない。


そして現在、資本主義が進化した市場原理主義に至って、世界経済自体が危機的な破綻を迎えているといい、それを救済するのは、筆者の主張によれば、「武士道精神」なのだそうである。なぜそうなのかは以下の第二章で説明される。


第二章  「論理」だけでは世界が破綻する(p35~64)     

どんなに論理的に正しくとも、それを徹底してゆくと人間社会はほぼ必然的に破綻に至ると筆者は言う。(「必然的」に「ほぼ」という形容詞を付すのはどういうことなのかよく分からない(笑)が)、だから、「論理」だけでは世界が破綻するという。その理由として、さらに筆者が追加するのは、

①論理には限界があること、   

②もっとも重要なことは論理で説明できないこと、

③論理には出発点が必要であること、

④論理は長くなりえないこと、

などをあげている。   
しかし、この四つ内容は、本当に「「論理」だけでは世界が破綻する」ことの理由の説明になっているだろうか。これらの四点は、理由として必要十分でかつ、必然的だろうか。いずれも非常に粗雑な説明で、論証になっていないと思う。

まず、「「論理」だけでは世界が破綻するという」説明自体が、第一にそもそも意味不明である。おそらく、論理のほかに「情緒や形」がなければ幸福な世界は成り立たないことを説明しようとしているのだと思うけれども。


また「人間の論理や理性の限界」の例として、「社会に出るとタイプが必要だから、学校でタイプを教えると、ろくな英語しか使えなくなった」ことを筆者は取り上げているが、それは、アメリカの当局者の教育理論が、ただお粗末なだけであって、「論理」に限界があるといった大げさなことではまったくない。そして、さらに、筆者は「論理に限界があること」の事例として、「市場経済主義だから株式投資」とか「国際化だから英語」という理由で小学生に英語や株式投資を教えることを、教育上の失敗の例として挙げているが、これもまた、その教育理論が拙劣なだけであって、「論理に限界がある」ためなどではない。

こんな拙劣な事例を取り上げて、厳密に「論理」を検証する余裕も能力もない人々に、事実として「論理」に対する偏見や蔑視を植え付けるのは教育上においても問題ではないだろうか。

特にわが国のように、過去において、その精神主義本位の傾向のために、人間性尊重と技術合理主義の精神の徹底を図れないまま、多大の被害や犠牲を出すという失敗の経験に事欠かない民族においては、「論理」や「合理主義」に対する偏見や蔑視を助長するような、筆者の非合理的な「説明」は、弊害が少なくないのではないかと思う。


また、「論理」だけでは世界が破綻する(笑)第二の理由として、「もっとも重要なことは論理では説明できない」ことをあげているが、これも、また当然のことであって、たとえば女性の心理など、「数学的な論理」で説明できないのは言うまでもないことである。しかし、大衆は日常生活の経験から鍛えられた論理的思考で、のびのびと「論理的」に思考し、日常の問題を解決しているのではないだろうか。奥さんが氏の話を「半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」というのも一つの見識ではないかとさえ思う。


注意しておく必要があるのは、筆者である数学者藤原正彦氏の念頭にある「論理」の内容が、とくに「数学の論理」であって、それが「特殊な論理」であることである。

数学の論理というのは、ただ、量と数をのみ目的として、その証明は機械的な自然の段階、領域においてのみ通用する論理であって、有機体や生命や社会構成体の運動や発展を説明できる論理ではない。

だから、単なる数学的な論理のみでは、藤原氏自身が述べているように「もっとも重要なことは(藤原氏の数学的な)論理では説明できない」のも当然のことであり、そのことは別段に新しい発見でもない。


論理的に説明できないことの、もう一つの例として、藤原氏は「人を殺していけないのはなぜか」をあげている。しかし、これも当然であって、これらの問題は数学的な論理の問題ではなく、倫理の問題であり、したがって、家族や社会や国家の論理から説明されるべきものである。

またさらに、第三の理由として、論理には出発点が必要であることを上げておられる。だがこれはまさしく、数学的な証明の欠陥を、あるいは限界を示すものであって、数学にあっては、この出発点Aの必然性が洞察されず、これこれの仮説Aから出発せよと外的に命令されて、その命令が証明にとって合目的的であることをさし当たっては盲従するしかないからである。

筆者にとって論理の出発点は、「情緒や形」である。この出発点は恣意的なものであって、その必然性を論証できないから、藤原氏は盲信するしかないし、また、この出発点AやBの恣意的な選択の結果として、結論が異なるのも当然のことである。

これは、数学の目的が、その論理的な証明が、貧弱で、その素材も、一という数や空間という量的なものに過ぎないからである。数学は、時間や有機体など、純粋な生命の不安定な事柄を対象にはできないからである。数学の証明というものは外的な必然性を目的にするものでしかない。
この「数学的な論理」の特殊性を普遍化して、「「論理」だけでは世界が破綻する」と藤原氏がいうのは正しくない。

また筆者は「最悪は情緒力がなくて論理的な人」(p53)というが、これもまた、能力と善悪が必然的に一致するものでないことを考えれば、当然のことである。

筆者が言うように、「数学をいくら勉強したところで、現実(民主主義や哲学など、人文科学や社会科学の領域)において適切な(判断や)振る舞いができるとは限りません」(p54)というのは、全くもって当然の話である。

そして、最後に藤原氏は第四の理由として、「論理は長くなりえない」ことをあげる。(p55)ここで筆者の専門である数学の論理で説明する。数学における証明はここでも説明されているように、1とか0.5といったは数量で取り扱える領域だけであるのに、現実の世界は、生命や磁石を見ても分かるように、生と死や陰極と陽極のように、その完全な境界を設定できない世界である。ここでは明らかに数学的なデジタル論理は破綻する。「短い(数学の)論理は深みに達しない」(p62)のだ。


だから、「「論理」だけでは世界が破綻する」という、この第二章の標題は、「世界の現実に直面して、藤原氏の論理は「破綻」する」とでもしておけばよかったのではないかと思う。


数学者、藤原氏は本質的には、論理の人ではなくて、感情の人、文学の人ではないかと思う。この章の最後で、氏が「欧米の支配を支えてきた論理や合理のほぼすべてがワンステップやツーステップで彩られている」(p64)というのは、西洋の数千年にわたる伝統の中で蓄積された哲学的思索や論理的な精神についての無知な、井の中の蛙の世界観ではないかと思う。

 2006年03月16日 


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