汗だく
爆弾の脅威みたいに
君の影は薄れつつあるの?
失うものなんて何も残ってない
起爆装置ごと爆破
また新しいニュース速報の噴出
きれいだと思わない?
すごく独特で
人生は愉快なものだけど、だんだん失速する
お定まりの道を歩んだりして
今を生きるんだ
打ち上げ花火を上げて楽しもう 盛大に
今のことだけ考えればいい ときの声を上げて
俺たちみんな死ぬには若すぎない?
理由を聞いたって返事なんか返ってこない
俺たちみんな死ぬには若すぎるよな
暮らしを立てて 大儲けして
許す価値のあるものって一体何だろう
一瞬
辛うじて食いつなぐ生活
通り過ぎて行く人達に支配されて
つきがないんだって思う
渋滞にはまっていると
そしてすっかり置いてきぼり
みたいな気持ちになっている
暴飲をやめて
回復し
また約束を交わす
変化をもたらそうと思って
羽は折れてしまっているけど
天使の歌声が聞こえる
変だと思わない?
変だと思わない?
ENGLISH
グリーン・デイの3枚連続リリースになるアルバムの1枚目『Uno!』(2012)を聴きました。こちらでも書いたかもしれないけれど、私はこの3枚について、どう受け留めていいのかなかなか心が決まりませんでした。どちらかというと、奇をてらわなくても、『Warning!』(2000)くらい良い曲の集まったアルバム1枚で十分なのにな、と思っていたかもしれない。でも結局、あっという間に心を奪われてしまって、水曜日からずっと聴いています。ただ、私はこのバンドとは一緒に成長することができなかったような気がした。そのために、強く惹かれる気持ちがある一方で、最初は少し辛い、引き裂かれるような気持ちがありました。ブルース・スプリングスティーンの音楽は、いつもその時の自分と共にあって、過去の特定の時と結びつきすぎているということはなかったけれど、グリーン・デイはどうしてか分からないけれど、10代の頃ととても強く結びついてしまった。グリーン・デイを聴く時には、どうしても10代の自分と今の距離を測らないではいらない。どれくらい遠くまで来られたか、それともどれくらい少ししか来られていないのか、というふうに。それが良いか悪いかという問題ではないし、もちろんグリーン・デイのせいでも何でもないのだけれど、もしかすると『Uno!』の音楽が少し聴くと、私がずぶずぶに彼らにのめり込んでいた『American Idiot』(2004)以降の音と似ているように感じられるからかもしれない。結構、アルバムかコンサートで聴いたことがあるような、と思うアレンジがあるように思いました。
特に聴き始めて、最初の4曲は本当に複雑な思いにさせられました。胸がいっぱいになりながらも、その気持ちさえ高校生の頃に初めて『American Idiot』をCDプレーヤーに入れた時のものと重なって見えるようだったし、8年も経っても、東京のアパートでひとりで天井を見ながら、グリーン・デイの新しいアルバムに聴き入っていると知ったら、一体10代の私はどう思うだろう、そんなにも人は変わらないものなんだろうか、と思うと辛かった。ブルースの『Wrecking Ball』(2012)を聴いても、そんなふうには少しも思わなかったというのに。私は故郷の町から逃げたかったのと同時に、同じくらい自分自身から逃げたかった。それには場所を変えるだけでは仕方なくて、でも私は本当に自分を変える気もなかったかもしれなくて、だから結局今も同じような自分でいる。それに対して、幸か不幸か寛大になってしまった部分もある一方で、今でもそういう自分がたまらなく嫌でもある。引き裂かれるような気持ち、というのはそういうことだったのだと思います。たぶん。「今を生きろ」("Carpe Diem")とか誰かの顔に唾を吐いて自由でいる歌("Let Yourself Go")とか、一体いつまでそんなことを言って生きていくつもりなんだろう、私は?
気恥ずかしい思いでいっぱいだけれど、"Carpe Diem"には特に引き寄せられる何かがあったので、ここ数日はこの曲のことを沢山考えていました。でも、よく思いを巡らせてみると、グリーン・デイが"Carpe Diem"というフレーズを言うということは、実は当たり前のことでは全然なかったのです。変わっていないなんてとんでもない。物語の形式をとっていた『American Idiot』と『21st Century Breakdown』(2009)は、常に未来に目を向けた内容でした。いかにどうしようもない現状を抜け出すか、いかにこの町を出て行くか、いかに自分を変えるか、いかに光を見出すか、それを模索する物語だったのです。そこに"Carpe Diem"に歌われる「今を楽しむ」、「未来のことは考えない」という要素はなかった。そうしてしまったら、自分も腐った町に囚われて骨抜きになってしまう。『Dookie』(1994)には、どうしようもない街でのどうしようもない暮らしが歌われていて、開き直りとして「今を楽しむ」という部分がないとは言えないけれど、"Carpe Diem"とはその気持ちの持っていき方が全然違っている。『Dookie』では、最悪の生活が永遠に続くみたいに思えるから、それを考えないために、今を1秒1秒潰していくことばかり考えているほかない。でも、"Carpe Diem"では、「Life's a gas and it's running out.」というラモーンズを思わせるフレーズにあるように、残された時間がぐっと減っていることを感じるからこそ、そんなことは心配しないで、失敗したと思ってもやり直して、今を生きようよと言っているように思える。そして、それは確実に歳をとっていることを感じさせる解釈でもあります。今が最悪の人にとっては、今を生きろと言われるなんて失望するかもしれない。先にだけ希望を求めて走っている人には諦めのように聞こえるかもしれない。でも、物事の見方というのは、生き方というのは1つではない。もう1つ、この曲の中でとても心を捉えられるフレーズがあるとしたら、それは「許す価値のあるものは何か?」というものです。『21st Century Breakdown』の中では、主人公たちは「闘う価値のあるものとは何か」という問いを投げかけ続けていました。でも、闘争の相手が許す相手に変わることもある。現実の世界では、本当に。それは、誰かかもしれないし、故郷かもしれないし、自分かもしれない。すべての闘いが終わる訳では決してないのだけれど。
『Uno!』を手に入れた翌日、高校生の頃、初めてのグリーン・デイのコンサートへ一緒に行った女の子から葉書を受け取りました。そこには、大学生の頃に勉強したことを初級から自分で学び直すことにした、とあった。死ぬには若すぎるのだもの。走ればきっと間に合う。
爆弾の脅威みたいに
君の影は薄れつつあるの?
失うものなんて何も残ってない
起爆装置ごと爆破
また新しいニュース速報の噴出
きれいだと思わない?
すごく独特で
人生は愉快なものだけど、だんだん失速する
お定まりの道を歩んだりして
今を生きるんだ
打ち上げ花火を上げて楽しもう 盛大に
今のことだけ考えればいい ときの声を上げて
俺たちみんな死ぬには若すぎない?
理由を聞いたって返事なんか返ってこない
俺たちみんな死ぬには若すぎるよな
暮らしを立てて 大儲けして
許す価値のあるものって一体何だろう
一瞬
辛うじて食いつなぐ生活
通り過ぎて行く人達に支配されて
つきがないんだって思う
渋滞にはまっていると
そしてすっかり置いてきぼり
みたいな気持ちになっている
暴飲をやめて
回復し
また約束を交わす
変化をもたらそうと思って
羽は折れてしまっているけど
天使の歌声が聞こえる
変だと思わない?
変だと思わない?
ENGLISH
グリーン・デイの3枚連続リリースになるアルバムの1枚目『Uno!』(2012)を聴きました。こちらでも書いたかもしれないけれど、私はこの3枚について、どう受け留めていいのかなかなか心が決まりませんでした。どちらかというと、奇をてらわなくても、『Warning!』(2000)くらい良い曲の集まったアルバム1枚で十分なのにな、と思っていたかもしれない。でも結局、あっという間に心を奪われてしまって、水曜日からずっと聴いています。ただ、私はこのバンドとは一緒に成長することができなかったような気がした。そのために、強く惹かれる気持ちがある一方で、最初は少し辛い、引き裂かれるような気持ちがありました。ブルース・スプリングスティーンの音楽は、いつもその時の自分と共にあって、過去の特定の時と結びつきすぎているということはなかったけれど、グリーン・デイはどうしてか分からないけれど、10代の頃ととても強く結びついてしまった。グリーン・デイを聴く時には、どうしても10代の自分と今の距離を測らないではいらない。どれくらい遠くまで来られたか、それともどれくらい少ししか来られていないのか、というふうに。それが良いか悪いかという問題ではないし、もちろんグリーン・デイのせいでも何でもないのだけれど、もしかすると『Uno!』の音楽が少し聴くと、私がずぶずぶに彼らにのめり込んでいた『American Idiot』(2004)以降の音と似ているように感じられるからかもしれない。結構、アルバムかコンサートで聴いたことがあるような、と思うアレンジがあるように思いました。
特に聴き始めて、最初の4曲は本当に複雑な思いにさせられました。胸がいっぱいになりながらも、その気持ちさえ高校生の頃に初めて『American Idiot』をCDプレーヤーに入れた時のものと重なって見えるようだったし、8年も経っても、東京のアパートでひとりで天井を見ながら、グリーン・デイの新しいアルバムに聴き入っていると知ったら、一体10代の私はどう思うだろう、そんなにも人は変わらないものなんだろうか、と思うと辛かった。ブルースの『Wrecking Ball』(2012)を聴いても、そんなふうには少しも思わなかったというのに。私は故郷の町から逃げたかったのと同時に、同じくらい自分自身から逃げたかった。それには場所を変えるだけでは仕方なくて、でも私は本当に自分を変える気もなかったかもしれなくて、だから結局今も同じような自分でいる。それに対して、幸か不幸か寛大になってしまった部分もある一方で、今でもそういう自分がたまらなく嫌でもある。引き裂かれるような気持ち、というのはそういうことだったのだと思います。たぶん。「今を生きろ」("Carpe Diem")とか誰かの顔に唾を吐いて自由でいる歌("Let Yourself Go")とか、一体いつまでそんなことを言って生きていくつもりなんだろう、私は?
気恥ずかしい思いでいっぱいだけれど、"Carpe Diem"には特に引き寄せられる何かがあったので、ここ数日はこの曲のことを沢山考えていました。でも、よく思いを巡らせてみると、グリーン・デイが"Carpe Diem"というフレーズを言うということは、実は当たり前のことでは全然なかったのです。変わっていないなんてとんでもない。物語の形式をとっていた『American Idiot』と『21st Century Breakdown』(2009)は、常に未来に目を向けた内容でした。いかにどうしようもない現状を抜け出すか、いかにこの町を出て行くか、いかに自分を変えるか、いかに光を見出すか、それを模索する物語だったのです。そこに"Carpe Diem"に歌われる「今を楽しむ」、「未来のことは考えない」という要素はなかった。そうしてしまったら、自分も腐った町に囚われて骨抜きになってしまう。『Dookie』(1994)には、どうしようもない街でのどうしようもない暮らしが歌われていて、開き直りとして「今を楽しむ」という部分がないとは言えないけれど、"Carpe Diem"とはその気持ちの持っていき方が全然違っている。『Dookie』では、最悪の生活が永遠に続くみたいに思えるから、それを考えないために、今を1秒1秒潰していくことばかり考えているほかない。でも、"Carpe Diem"では、「Life's a gas and it's running out.」というラモーンズを思わせるフレーズにあるように、残された時間がぐっと減っていることを感じるからこそ、そんなことは心配しないで、失敗したと思ってもやり直して、今を生きようよと言っているように思える。そして、それは確実に歳をとっていることを感じさせる解釈でもあります。今が最悪の人にとっては、今を生きろと言われるなんて失望するかもしれない。先にだけ希望を求めて走っている人には諦めのように聞こえるかもしれない。でも、物事の見方というのは、生き方というのは1つではない。もう1つ、この曲の中でとても心を捉えられるフレーズがあるとしたら、それは「許す価値のあるものは何か?」というものです。『21st Century Breakdown』の中では、主人公たちは「闘う価値のあるものとは何か」という問いを投げかけ続けていました。でも、闘争の相手が許す相手に変わることもある。現実の世界では、本当に。それは、誰かかもしれないし、故郷かもしれないし、自分かもしれない。すべての闘いが終わる訳では決してないのだけれど。
『Uno!』を手に入れた翌日、高校生の頃、初めてのグリーン・デイのコンサートへ一緒に行った女の子から葉書を受け取りました。そこには、大学生の頃に勉強したことを初級から自分で学び直すことにした、とあった。死ぬには若すぎるのだもの。走ればきっと間に合う。
21CBを手にとって間もない頃も、今と同じ、どうしようもない気持ちになったことや、そういう気持ちを抱えながらあの作品にずぶずぶのめり込んでいったことを思い出しました。今も同じように感じてしまうのは、「やっぱり自分は変わらない(変われない)のだな」という諦念のようでもあり、「どうしようもない気持ち」が湧き上がってくるのは、同時に「まだ諦めてない」という示唆だったりするのかなぁと、そんな色々が綯い交ぜになって、結局「なんもいえないなぁ」という風になってしまいます。
「本当に戦う価値のあるものをみつける」というのは、「許す(諦める)価値のあるものをみつける」ことを含んでいるのかもしれないですね。その包含関係は逆かもしれないし、あるいは等価なのかなとも思います。そんなよく分からない包含関係が結局"Carpe Diem"という言葉に表れているのかなと、なんとなくそんな風に感じています。
まだ二作残っていますね。残りの二作はどんな気分にさせてくれるんでしょうね。結局何聴いても感じることは変わらないのかもしれませんが、ここは一つ"Carpe Diem"ということで、楽しみにしていきたいですね。笑。
この記事を書いていた時に、よじまさんがこの曲についてtweetをされていて、心が温まりました。よじまさんも今聴いていらっしゃるんだろうなと思うと嬉しかったです。
頂いたコメントを読みながら、"Carpe Diem"を聴いていたら、そうか、どうしようもない気持ちになりそうだから、或いはどうしようもない気持ちだから、でもそうなっていても仕方ないから、"Carpe diem"というフレーズが出てくるとも考えられるんだな…と思いました。でも以前は、絶対に変わってすべてを何とかするつもりでいたけれど、その時のままだとこういう解釈も出てこないのだと思うと、確実に変化している部分もあるようにも感じます。望んだ変化ではないかもしれないけれど.。o○よじまさんが書いてくださった闘う価値のあるものを見つけることと許す価値のあるものを見つけることというのは、実は同じことかもしれない、ということも、闘うことに必死だった時には決して気づくことができなかったように思います。
でも、こうして特定の時期にぐっと引き込まれる作品があるというのは、これまでの自分を振り返っても後々良いことなのだろうという気がします。よじまさんがtweetされていたように、何年か後の自分にとってのこの作品の位置づけも楽しみです。よじまさんは今の生活に入られて丁度半年の時期なのですね。半年間、お疲れさまでした。この後も、時には"Carpe Diem"で、時には"See the Light"で、そしてその他もろもろも駆使しながら乗り切ってください。応援しています。
今回もとても熱い記事に引き込まれるように読ませていただきました。とはいえ、自分はGreen Dayは「Dookie」しか聞いたことなくて、音楽的な背景のことはよくわかりませんでした。asburyさんがおっしゃっているように、時間や時代と関係なく聞ける歌と、そういったものに深く浸透してしか聞けないものってあるのかもしれません。まぁ、対自分ということであれば、それも普遍的な基準はないはずですけども。
それにしても、Green Dayの音楽的な進化(あるいは変化)に対するasburyさんの鋭い嗅覚と深い愛情が同居している文章は、Green Dayの音楽を知らずともすごく興味深いものです。
でも自分がコメントを書こうと思うほどびりびりきたのは、
「同じくらい自分自身から逃げたかった。それには場所を変えるだけでは仕方なくて、<下線>でも私は本当に自分を変える気もなかったかもしれなくて、</下線>」
という箇所でした。
変わりたかったはずなのに、あるいはどう考えても変わるべきだと思うのに、自分を変える気もほんとはなかったかのもしれない(あるいは今もないのかもしれない)、というのはとてもとても根深い懐疑だと思います。そこを疑いだしたら、自分の感じられるものに対してすら、確かなものなんて残るのかなぁというほどの。自分もそういうの、わかるのかもしれません。ほんとに変えたかったら、違う行動をしてるんじゃないの?っていう疑問が、自分の行為に対して感じられるのです。いまでも感じています。
底の抜けた自分があるとき、音楽みたいなものがあるといいんでしょうね。前に、ブルースを盾みたいにして、ってasburyさんが言っていた言葉が思い出されました。なにかを好きな自分がいれば、それだけで、中身はまだ暗いかもしれないけど、少なくとも自分はある。
…オチのない話でした(笑)
オチのない、なんてとんでもないです…!いつもいつもかいたくさんは、本当に丁寧に読んでくださっていて、前に書いたことも覚えてくださったりしていて、本当に胸がいっぱいになりました。ありがとうございます。
10代のときは、ここを抜け出せれば何とかなる、と信じていたことが、今になってみると全然何とかなっていない部分がたくさん残っています。それは結局場所のせいなんかじゃなくて、自分のせいだというのは分かっているけれど、10代のときには、自分まで否定すると何一つ自分の手元に残せるものが残らなかったから、自分だけは手放せなかったんだと思います。その葛藤は、それに気がついてもなかなか抜け出せないものなのかもしれないです。私は自分を完全に変えることは無理だ、とずっと思っていて、ある程度自分であることと折り合いをつけて生きていかなくてはいけないと思っていたのだけれど、ある時にその気があれば必ず変われる、と言う人に出会って、なんだか分からなくなりました。変わる気がない「かもしれない」というのは、そういうことなのでした。でも、かいたくさんが仰ったように、「ほんとに変えたかったら、違う行動をしてるんじゃないの?」ということは私も感じています。それもあくまで疑問であって、確信ではないのだけれど…。
好きなものや考えるヒントをくれるもの、というのは確かにあるといい気がします。それがあるおかげで考え込んでしまう、という部分もあるのかもしれないけれど、何も考えないよりはいいか、とも思ったりします。無駄なことをいっぱい考えているだけに外からは思えるだろうけれど、それを考えないで時間ばかり過ぎてしまうと、やっぱり自分が逃げていってしまうように思います。
お返事ありがとうございます。またまた勘違いをしていたようで、お恥ずかしいです。。
僕は、変わる、ということと否定する、ということの具合がつかみきれてないみたいです。はぅ。
ちょっと考えました。変わることと否定することって、確かに表裏一体なのかなということです。それは一面としては、未来の自分が変わることは、現在の自分の否定を意味していて、つまり変わると自分がなくなってしまう。だって変わったのだから、<下線>以前の自分(今の自分)は</下線>存在しない。
だけど、一体だからこそ、別の一面もたぶんあって、つまり、未来においてきちんと否定ができたら、その時は同時に、認めうる新しい自分もできてるはずで、なにもなくなっちゃうことってないんじゃないかなぁみたいなことです。それで、新しくなった自分は、きっと過去の自分を引き継いでいるから(そうじゃなかったら、なにが変わったのかわからないですし)、同じような経験をしている他人の話を聞いて共感したり、あるいはアドヴァイスしたりもできる。
ううんと、つまり、否定しても、変われればむしろなにも消えないんじゃないかな、と思いました。ぬぬぬ…。ぐちゃぐちゃですね。はぅ。変わるって、いろいろありますよね。核心についての時と、周辺事態についての時はまた話が違いそうですし。…話しだすと、坂道で長い巻物を落としたみたいに大変なことになってしまうのはよくないなぁと思います。巻物回収します。はぅ。失礼しました。
こちらこそご丁寧にありがとうございます。
私は自分の中で勝手に、否定することと変わることがあたかも同義のように使ってしまっていたけれど、私の中でもその関係というのはあんまり定まっていないし、それが葛藤の一因なのではないかという気がします。それをかいたくさんに一生懸命考えてもらってしまって、何だか申し訳ないくらいです。
かいたくさんが仰る、「変わるのにもいろいろある」というのは、きっとその通りだな…と思いました。正しい否定をして直すべきところをきちんと直す、というのがかいたくさんの仰る過去の自分を引き継いだ変化になるのかな、と思います。過去をすっぱり切ったり、根扱ぎにしたりするんじゃない、ささやかかもしれないし、後戻りしてしまいやすいかもしれない変化。そういう変化をきちんと遂げるには、認めるべきところとそうでないところを区別するために、何を変えなきゃいけないのかをきちんと見極めなくてはいけないし、私にはまだそれができていないんだろうなと思います.。o○誰かに変化することについて共感したり、アドバイスをするなんて考えたことがなかったから、ああ、かいたくさんは私より前を行っているんだ、とも思いましたし、頂いたコメントもアドバイスだとはっと気が付きました。大切にします。
はじめまして。ご訪問とコメントをありがとうございます。グリーン・デイという縁でそんなふうに感じてくださる方に読んで頂けてとても嬉しく思います。具体的なことは分からないけれど、まさおさんも今を存分に生きられますように…!