今日はいつもの歌詞紹介ではなくて、少し違ったことをしたいと思います。先日、『スプリングスティーンの歌うアメリカ』(2009)の著者である五十嵐正さんが、あるアメリカ人の方のブログに胸を打たれたというtweetをされていました。書いているのは、Joe Posnanskiさんという昨年までカンザスでスポーツライターをしていた方で、五十嵐さんが紹介されていたのは、彼がブルース・スプリングスティーンの “The Promise”やアルバム『Darkness on the Edge of Town』(1978)と自身の若い頃の思い出をシンクロさせながら書かれた短編小説のような美しいエッセイでした。今回は、そのエッセイの翻訳に取り組みたいと思います。少しでも、読んでくださる方の心に届くような丁寧な訳を心掛けたいと思っています。
随分と長い文章なのですが、取り上げようと思ったのは、2つの理由があります。1つは、私が個人的に彼の文章のスタイルにとても惹かれたからです。音楽について語る手法というのは、沢山あるものだけれど、Posnanskiさんの文章は私が書きたいと思っているようなものでした。彼の書く内容はごく個人的な事柄に思えるけれども、それはブルースの詞と同じように、ストーリーテリング(創作)としての深みと普遍性と世界観を持っています。私も自分が文章を書く意義を考えてみると、個人的な経験に基づいたストーリーテリングを目指しているのではないかと思います。私にはゼロから何かを語るほどの創造性はなく、いつも経験に基づいて話は始まるのだけど、そのプレゼンテーションの仕方を微に入り細に穿って選択していくという点でそれはいつも創作です。ですから、Posnanskiさんのエッセイを丁寧に訳すことで、少しでも自分の文章を磨くことができればいいなと思ったのです。2つ目の理由は、こうしたブルース・スプリングスティーンに関わる様々な人のエッセイや思いが、私自身のブルース観を作り上げるのに昔からとても深く関わってきているということに、思い至ったからでもあります。『Darkness』のボックスセットや『The Promise』(2010)はアメリカでは既にリリースされました。私は日本盤の発売を待ちながら、毎日Posnanskiさんや日本の既に入手された方の感想を読んだりして期待を膨らませるという生活をしています。これはブルースを好きになりたての頃、どんな情報も新鮮だった頃にふれた沢山の文章から感じ取ったブルースへの強く真摯な思いを思い起こさせるものでした。そして、それは当時から今までずっと続いてきたことなのだと気付いたのでした。ブルースという1人のアーティストに対して、Posnanskiさんが書かれたような個人的な胸がいっぱいになるストーリーがきっと幾つも幾つも存在し、私はそれに多くふれることで数々の曲に対する思い入れを強めていけました。それは、ブルースがデビューしてから30年も後になってからファンになったことの1つの利点かもしれない、ととても幸運に思っています。
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Joe Posnanski “The Promise”
from Joe Blogs on 11/10/2010 (1/2)
ジョニーは工場で働き ビリーはダウンタウンに勤めている
テリーはロックンロールバンドで頑張っている 一大ヒットを求めて
俺はダーリントンで職を得たが 行かない夜もある
時にはただドライブインまで行ったり 家に残っているだけの晩もある
-Bruce Springsteen. The Promise
***
初めて「ザ・プロミス」を聴いた時のことを覚えている。10年ほど前のことだったが、この曲はそれよりかなり前から出回っていて、ブルース・スプリングスティーンは1975年の『明日なき暴走』でロックンロールスターになってから、最初に書いた1曲だと言っていた。『明日なき暴走』後、最初の曲だというのは納得のいく話だ。『明日なき暴走』が描いていたのは、憧れ、開かれたハイウェイ、くっきりと浮かび上がる遊園地の姿、何1つ書かない詩人、メアリが追いやった男たちの目に映る亡霊。このアルバムは輝かしい日々を歌っていた。夢は叶わないと分かっていても、なお自分だけには夢は実現するかもしれないと信じる日々を。
そして「ザ・プロミス」はそうした夢を奪ってゆく日常を歌う、「サンダーロード」の続きだった。「サンダーロード」はギターを語らせる術を学んだ男と、美人ではない(が、素敵な)女の子の2人が負け犬だらけの町を勝つために出ていく歌だ。その男も今では夜勤の仕事に就いている。彼が顔を見せない晩もある。友人は私にこの曲をぜひ聴くように、まだ聴いていないなんて信じられないと言った。
私が聴いた「ザ・プロミス」は『18 トラックス』に収められたものだった。スプリングスティーンが30年以上前にレコーディングしたものとは異なり、無に限りなく近くそぎ落とされ、スプリングスティーンとピアノだけでの演奏になっている。
そして、音楽を聴くようになってから1度も経験したことがない何とも不思議なことが起きた。私は自分が泣いているのに気が付いた。
***
俺は映画の中の男たちのように夢を追った
俺のチャレンジャーでルート9を行き止まりや窮地も駆け抜けて
約束が果たされなくなった時 俺は幾つかの夢を金に換えた
***
自分の10代を集約するような思い出、自分がどんな男になりたいと願っていたかが1番よく分かる思い出を1つ選ぶとしたら、それは午前6時、ベッドの揺れと共に始まる。それが父親流の起こし方だった。片膝で軽くベッドを打つのだ。季節は夏、しかし雨が降っているせいで外はまだ暗い。無情な灰色の世界だ。父親は言葉もなく部屋から出ていく。言うべきことなどありはしない。起きる時間なのだ。
私はシャワーを浴びずに急いで着替える。私たちは、朝なるたけ寝ていられるように時間ぎりぎりのスケジュールにしていた。厳密には私がなるたけ寝ていられるように。父はテレビの前でうたた寝をする外には殆ど眠らなかった。父は階下で、先に着替えて準備を終えて、いつも私を待っていた。6時より遥か前からひとりで起きて、昼食も茶色の紙袋に詰めて準備していた。昼食はきっとサラミのサンドイッチだ。大抵そうだった。
私たちはのろのろと車に向かう。おんぼろのポンティアックは私が夏の終わりには買い取りたいと思っていたものだ。雨は首に激しく打ちつけていたが、私たちは走らない。車に乗って暫く沈黙があり、やがて私と父は些細なことについて話をし始め、途中でポパイに寄って朝食にビスケットを食べる。周囲は、まるで昔のテレビがぼんやりと映像を映し出す時のように少しずつ明るくなっていく。30分ほどの道のりだが、こんなにも朝早くに走っている車は殆どない。
そして私たちは車から降り―、工場へと入って行く。アリサという名の編物工場だ。出来上がった品を見たことはないが、恐らくセーターなんかを作っていたのだと思う。どこもかしこも紡糸だらけだった。熱や湿気、埃や段ボール箱のせいで息苦しい。何より紡糸で息が詰まりそうだった。まるでセーターが自分の肺の中で編まれているようだった。
父親は編機の管理をする仕事に就いていた。詰りを解消し、雑音を止め、緩んだボルトを締め、きつすぎるボルトを緩めた。私は幼い頃から、父の手の力が並外れて強いことに気づいていたけれど、やっとその訳が分かった。レンチを探す暇もないため、固く締めたボルトを指で緩めるようなことをしていたからだ。機械が何事もなく動いている時には、父親がグラフ用紙に×印を描いてセーターの色をデザインしているのを目にした。学校で父親の仕事を訊かれると、私はいつもセーターのデザインだと答えていた。それは父親の本当の仕事を恥じていたからでは断じてない。私にとって父はセーターのデザイナーだった。
私の仕事は倉庫で紡糸の箱を出し入れし、木曜日にはトラックから染料を降ろすことだった。あの古いポンティアックを買うための仕事で、18歳の私には、あの車が何としても欲しいということ以外に何ひとつ目的がなかった。大学では会計学を専攻していたが、基本的事項さえろくに理解できず、デビットカードは良くて、クレジットカードは良くないというくらいにしか考えられなかった。先生はそれは良い悪いの問題ではないと言い続けたが、私はそう思わなかった。会計士にならないのは確かだったのに、自分自身に対してまだそれを認めずにいた。自分が何になるかも、何ができるかも分からず、何もかもが遠く手の届かないことに思えた。
週6日、記憶が正しければ、時給4ドルでアリサで働いた。当時の最低賃金は時給3.35ドルで、これは人生で2番目にペイのいい仕事だった。1番はローンの期限が過ぎた人々に電話をかける仕事の時給4.5ドルだ。その人たちの支払い予定を作成していたが、私には向いていなかった。電話の向こうにある怒りや絶望を理解しなかったし、脅されることもしょっちゅうだった。工場では怒鳴られても脅迫されることはない。工場では脅しには何の意味もない。私の代わりなどすぐに見つかるのは誰の目にも明らかだった。私は貧相で頼りなく、見込みがないと思われていた。私はただただ父のおかげでそこにいられたのだ。機械が壊れた時に直すことができる唯一の人だった父のおかげで。
***
俺は自分でチャンレジャーを組み立てた
だが金が必要になり 手離した
自分だけのものにしておくべき秘密を抱えてきたのに
ある晩 飲みすぎて話してしまった
***
スプリングスティーンは「ザ・プロミス」を『闇に吠える街』のために書いた。スプリングスティーンをことをよく知っている人なら、彼が「ザ・プロミス」を書いた時期、『明日なき暴走』によって成功を収めた後であり、『闇に吠える街』を作る前の時期は、彼が大人になることを強いられた奇妙な時だったことをご存じだろう。スプリングスティーンが自分の音楽的魂とさえ呼んだ創作の自由に関して、マイク・アペルとの厳しい法廷争いに巻き込まれ、また、未だかつて経験したことのない巨大な成功が何を意味するのか見出すことにも苦労していた。成功を厭いながら、愛し、成功を喜ぶ自分を憎んだ。
音楽は彼の内側から溢れ出て来るかのようだった。彼は27歳で、未だに満たされていなかったが、何を求めているのかはよく分からなかった。パンクを聴いたり、ハンク・ウィリアムズを聴いたりしていた。『明日なき暴走』のセッションはスプリングスティーンがいかに頑強に妥協を拒んだかで伝説的だ。14か月間、自分が頭の中で聞いた通りのものを作り出そうと何度でも録り直しをした。けれども、少なくとも『明日なき暴走』に関して言えば、彼のヴィジョンははっきりしていた。スプリングスティーンはとにかくロックンロール史上最高のアルバムを作りたかったのだ。25歳にして、彼はそれを成し遂げた。何とも野心的な若者だった。
だが、『闇に吠える街』については、誰も、もしかするとスプリングスティーン自身も何をしようとしているのか分かっていなかった。バンドは次々に曲を覚え、中にはヒットしそうなものもあったが、スプリングスティーンは興味を示さなかった。この頃、彼は「ビコーズ・ザ・ナイト」をパンクスターのパティ・スミスに譲って、それが彼女の一大ヒットとなり、「ファイア」をポインター・シスターズに提供し、それもまた彼女たちの最大のヒットとなった。更にゲイリー・U.S.・ボンズに譲った「ディス・リトル・ガール」はボンズにとって約20年ぶりのヒットになった。もっと古い「ザ・フィーヴァー」や「トーク・トゥ・ミー」といった曲はサウスサイド・ジョニー&ジ・アズベリー・ジュークスに、「ランデヴー」はグレッグ・キーンのものとなった。「ある意味、まったく悲しい話ではあるよ。ブルースは歴史に残る最高のポップソングライターになろうと思えばなれたんだ」。Eストリート・バンドのギタリストであり、スプリングスティーンの引き立て役でも、オルターエゴでもあるスティーヴィー・ヴァン・ザントは、『闇に吠える街』のドキュメンタリーの中でそう話すが、それは皮肉ではない。
スプリングスティーンは自分が最高のポップソングライターを目指しているのではない、ということだけには確信があった。ヒットが欲しい訳ではなく、『明日なき暴走』の二番煎じはまっぴらだった。何か主張をしたかったし、「すべての誤解をはっきりさせたい」と思っていた。今回のゴールはロックンロール史上最高のアルバムを作ることではなく、もっと名状し難い何かを求めていた。「正直なアルバムを作りたい」というのがスプリングスティーンの言葉だった。バンドは「ザ・プロミス」のリハーサルとレコーディングに3か月を費やした。ぴんと来るものを求め続けて。
***
俺はずっと闘い続けだった
決して勝ち得ない闘いを
日に日に困難になっていくばかりだ
信じた夢を生きるのは
***
アリサでの仕事は単調で気が滅入った。確かにホームコメディ的な場面もなかった訳ではないけれど。私はまだ若かったし、そうした見方ができるくらいには距離を保っていた。私の上司は粗暴な男で私の箱の動かし方があまりうまくないことと、上司が自分の人生にうんざりしているということ以外に大した理由もなく、私を怒鳴りつけることを楽しんでいた。ある日、彼は私と他の倉庫係を数人、どこへ何をしに行くのか説明もないままトラックに乗せた。着いたのは富裕層の住む界隈で、工場のオーナーがソファを動かすのに人手が欲しかったのだということが分かった。そういう訳で私たちはソファを動かした。
倉庫係の中に冗談の通じない年輩の男がいて、若い連中が何人も辞めていくのを見ながら、自分はその間ずっと耐え抜いてきたのだという話を度々した。(私たちはそれで彼が得たものは一体何だったのかをたまに考えて、5ドルの時給だと結論した。)実際の仕事は不合理なもので、紡糸の箱を動かすのだけれど、こっちかと思えばあっち、あっちかと思えばこっちといった具合だった。更に、工場には「美人じゃないが素敵な」瓜二つの双子の姉妹までいて、工場勤めが長くなるほどに素敵に見えてきた。(やがて私は、納得してもらえるか分からないが、瓜二つの双子の特に可愛かった方を好きになった。けれど私のことを好きになったのはもう1人の方だったというのも、ホームコメディとしてはぴったりくる話だと思う。)
しかし、コメディかどうかはともかく、この場所、或いは仕事にはどこかおかしなところがあった。アリサとは来る日も来る日も来る日も来る日も続く終わりのない仕事だった。いつでも必ず積荷を降ろされるのを待っているトラックがあり、フロアを行き来しなければならず("Box ‘em up”[訳注:字義通りには行く手を遮る。運ぶべき箱と掛けた言い方で、「箱を運んで来い」などという意味ではないかと思います。]と上司は怒鳴ったものだ)、染色場まで走らなければならなかった。染色場は有毒で寒々しくて危険で、まるでディケンズの小説かバットマンの映画にでも出てきそうな所だった。その間、機械の低音や甲高い音や何かを打ちつける音などが絶え間なく聞こえ、あまりの音量で箱が揺れるほどだった。けれども私は、いつの間にかその騒音に、少なくとも工場にいる間は耳を閉ざすようになった。だが仕事の後、何時間も耳鳴りがして、夜中に目が覚めてもまだ機械の音が耳に鳴り響いていることがあった。
最初の2週間はアドレナリンと若さにものを言わせて乗り切り、次の2週間は初めての車を買うという期待にかけて乗り切った。しかし、その1か月が経った時には私は自分を鼓舞するものを最早持たなかった。私が仕事に行くのは、ただただ朝にベッドが蹴られ、私は父が階下で待っていることを知っていたからであり、どうやって辞めればいいのかも分からなかったからだ。とにかく1日中型通りの仕事をやり続けた。私は台車の扱いがうまくなり、どれだけ自分が屈強になったかを知って驚いた。しばしば箱と箱の間に隠れようとした。必要もないのに10キロ弱も体重が減った。疲れ切って言葉にし難い何かを執拗に求めながら家に帰った。そして翌朝になるとベッドが蹴られて、私は目を覚まし、着替えて準備を終えた父親の姿をぼんやりと認める。急いでジーンズを穿き、ポンティアックに乗り込むとまた同じことをすべて繰り返すのだ。
これが私の人生ではないと信じ、そのことで正気を保っていられたのだと思う。これが私の人生ではない。これは束の間のことだ。私は自分に何ができるか分からず、自分の人生を現実的に考えることができずにいた。18歳で、両親のアパートに住み、市大では会計学で落ちかけていて、これといった技術を何も持たないまま人生を漂っていた。私にあったのは若さだけだった。その若さがこれは私の人生ではない、そんな筈がない、これは父親の車を買い取って何かもっとすごいことを成し遂げるための夏の仕事に過ぎないと私に教えていた。いつか夏には終わりが来るのだと。(続く)
随分と長い文章なのですが、取り上げようと思ったのは、2つの理由があります。1つは、私が個人的に彼の文章のスタイルにとても惹かれたからです。音楽について語る手法というのは、沢山あるものだけれど、Posnanskiさんの文章は私が書きたいと思っているようなものでした。彼の書く内容はごく個人的な事柄に思えるけれども、それはブルースの詞と同じように、ストーリーテリング(創作)としての深みと普遍性と世界観を持っています。私も自分が文章を書く意義を考えてみると、個人的な経験に基づいたストーリーテリングを目指しているのではないかと思います。私にはゼロから何かを語るほどの創造性はなく、いつも経験に基づいて話は始まるのだけど、そのプレゼンテーションの仕方を微に入り細に穿って選択していくという点でそれはいつも創作です。ですから、Posnanskiさんのエッセイを丁寧に訳すことで、少しでも自分の文章を磨くことができればいいなと思ったのです。2つ目の理由は、こうしたブルース・スプリングスティーンに関わる様々な人のエッセイや思いが、私自身のブルース観を作り上げるのに昔からとても深く関わってきているということに、思い至ったからでもあります。『Darkness』のボックスセットや『The Promise』(2010)はアメリカでは既にリリースされました。私は日本盤の発売を待ちながら、毎日Posnanskiさんや日本の既に入手された方の感想を読んだりして期待を膨らませるという生活をしています。これはブルースを好きになりたての頃、どんな情報も新鮮だった頃にふれた沢山の文章から感じ取ったブルースへの強く真摯な思いを思い起こさせるものでした。そして、それは当時から今までずっと続いてきたことなのだと気付いたのでした。ブルースという1人のアーティストに対して、Posnanskiさんが書かれたような個人的な胸がいっぱいになるストーリーがきっと幾つも幾つも存在し、私はそれに多くふれることで数々の曲に対する思い入れを強めていけました。それは、ブルースがデビューしてから30年も後になってからファンになったことの1つの利点かもしれない、ととても幸運に思っています。
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Joe Posnanski “The Promise”
from Joe Blogs on 11/10/2010 (1/2)
ジョニーは工場で働き ビリーはダウンタウンに勤めている
テリーはロックンロールバンドで頑張っている 一大ヒットを求めて
俺はダーリントンで職を得たが 行かない夜もある
時にはただドライブインまで行ったり 家に残っているだけの晩もある
-Bruce Springsteen. The Promise
***
初めて「ザ・プロミス」を聴いた時のことを覚えている。10年ほど前のことだったが、この曲はそれよりかなり前から出回っていて、ブルース・スプリングスティーンは1975年の『明日なき暴走』でロックンロールスターになってから、最初に書いた1曲だと言っていた。『明日なき暴走』後、最初の曲だというのは納得のいく話だ。『明日なき暴走』が描いていたのは、憧れ、開かれたハイウェイ、くっきりと浮かび上がる遊園地の姿、何1つ書かない詩人、メアリが追いやった男たちの目に映る亡霊。このアルバムは輝かしい日々を歌っていた。夢は叶わないと分かっていても、なお自分だけには夢は実現するかもしれないと信じる日々を。
そして「ザ・プロミス」はそうした夢を奪ってゆく日常を歌う、「サンダーロード」の続きだった。「サンダーロード」はギターを語らせる術を学んだ男と、美人ではない(が、素敵な)女の子の2人が負け犬だらけの町を勝つために出ていく歌だ。その男も今では夜勤の仕事に就いている。彼が顔を見せない晩もある。友人は私にこの曲をぜひ聴くように、まだ聴いていないなんて信じられないと言った。
私が聴いた「ザ・プロミス」は『18 トラックス』に収められたものだった。スプリングスティーンが30年以上前にレコーディングしたものとは異なり、無に限りなく近くそぎ落とされ、スプリングスティーンとピアノだけでの演奏になっている。
そして、音楽を聴くようになってから1度も経験したことがない何とも不思議なことが起きた。私は自分が泣いているのに気が付いた。
***
俺は映画の中の男たちのように夢を追った
俺のチャレンジャーでルート9を行き止まりや窮地も駆け抜けて
約束が果たされなくなった時 俺は幾つかの夢を金に換えた
***
自分の10代を集約するような思い出、自分がどんな男になりたいと願っていたかが1番よく分かる思い出を1つ選ぶとしたら、それは午前6時、ベッドの揺れと共に始まる。それが父親流の起こし方だった。片膝で軽くベッドを打つのだ。季節は夏、しかし雨が降っているせいで外はまだ暗い。無情な灰色の世界だ。父親は言葉もなく部屋から出ていく。言うべきことなどありはしない。起きる時間なのだ。
私はシャワーを浴びずに急いで着替える。私たちは、朝なるたけ寝ていられるように時間ぎりぎりのスケジュールにしていた。厳密には私がなるたけ寝ていられるように。父はテレビの前でうたた寝をする外には殆ど眠らなかった。父は階下で、先に着替えて準備を終えて、いつも私を待っていた。6時より遥か前からひとりで起きて、昼食も茶色の紙袋に詰めて準備していた。昼食はきっとサラミのサンドイッチだ。大抵そうだった。
私たちはのろのろと車に向かう。おんぼろのポンティアックは私が夏の終わりには買い取りたいと思っていたものだ。雨は首に激しく打ちつけていたが、私たちは走らない。車に乗って暫く沈黙があり、やがて私と父は些細なことについて話をし始め、途中でポパイに寄って朝食にビスケットを食べる。周囲は、まるで昔のテレビがぼんやりと映像を映し出す時のように少しずつ明るくなっていく。30分ほどの道のりだが、こんなにも朝早くに走っている車は殆どない。
そして私たちは車から降り―、工場へと入って行く。アリサという名の編物工場だ。出来上がった品を見たことはないが、恐らくセーターなんかを作っていたのだと思う。どこもかしこも紡糸だらけだった。熱や湿気、埃や段ボール箱のせいで息苦しい。何より紡糸で息が詰まりそうだった。まるでセーターが自分の肺の中で編まれているようだった。
父親は編機の管理をする仕事に就いていた。詰りを解消し、雑音を止め、緩んだボルトを締め、きつすぎるボルトを緩めた。私は幼い頃から、父の手の力が並外れて強いことに気づいていたけれど、やっとその訳が分かった。レンチを探す暇もないため、固く締めたボルトを指で緩めるようなことをしていたからだ。機械が何事もなく動いている時には、父親がグラフ用紙に×印を描いてセーターの色をデザインしているのを目にした。学校で父親の仕事を訊かれると、私はいつもセーターのデザインだと答えていた。それは父親の本当の仕事を恥じていたからでは断じてない。私にとって父はセーターのデザイナーだった。
私の仕事は倉庫で紡糸の箱を出し入れし、木曜日にはトラックから染料を降ろすことだった。あの古いポンティアックを買うための仕事で、18歳の私には、あの車が何としても欲しいということ以外に何ひとつ目的がなかった。大学では会計学を専攻していたが、基本的事項さえろくに理解できず、デビットカードは良くて、クレジットカードは良くないというくらいにしか考えられなかった。先生はそれは良い悪いの問題ではないと言い続けたが、私はそう思わなかった。会計士にならないのは確かだったのに、自分自身に対してまだそれを認めずにいた。自分が何になるかも、何ができるかも分からず、何もかもが遠く手の届かないことに思えた。
週6日、記憶が正しければ、時給4ドルでアリサで働いた。当時の最低賃金は時給3.35ドルで、これは人生で2番目にペイのいい仕事だった。1番はローンの期限が過ぎた人々に電話をかける仕事の時給4.5ドルだ。その人たちの支払い予定を作成していたが、私には向いていなかった。電話の向こうにある怒りや絶望を理解しなかったし、脅されることもしょっちゅうだった。工場では怒鳴られても脅迫されることはない。工場では脅しには何の意味もない。私の代わりなどすぐに見つかるのは誰の目にも明らかだった。私は貧相で頼りなく、見込みがないと思われていた。私はただただ父のおかげでそこにいられたのだ。機械が壊れた時に直すことができる唯一の人だった父のおかげで。
***
俺は自分でチャンレジャーを組み立てた
だが金が必要になり 手離した
自分だけのものにしておくべき秘密を抱えてきたのに
ある晩 飲みすぎて話してしまった
***
スプリングスティーンは「ザ・プロミス」を『闇に吠える街』のために書いた。スプリングスティーンをことをよく知っている人なら、彼が「ザ・プロミス」を書いた時期、『明日なき暴走』によって成功を収めた後であり、『闇に吠える街』を作る前の時期は、彼が大人になることを強いられた奇妙な時だったことをご存じだろう。スプリングスティーンが自分の音楽的魂とさえ呼んだ創作の自由に関して、マイク・アペルとの厳しい法廷争いに巻き込まれ、また、未だかつて経験したことのない巨大な成功が何を意味するのか見出すことにも苦労していた。成功を厭いながら、愛し、成功を喜ぶ自分を憎んだ。
音楽は彼の内側から溢れ出て来るかのようだった。彼は27歳で、未だに満たされていなかったが、何を求めているのかはよく分からなかった。パンクを聴いたり、ハンク・ウィリアムズを聴いたりしていた。『明日なき暴走』のセッションはスプリングスティーンがいかに頑強に妥協を拒んだかで伝説的だ。14か月間、自分が頭の中で聞いた通りのものを作り出そうと何度でも録り直しをした。けれども、少なくとも『明日なき暴走』に関して言えば、彼のヴィジョンははっきりしていた。スプリングスティーンはとにかくロックンロール史上最高のアルバムを作りたかったのだ。25歳にして、彼はそれを成し遂げた。何とも野心的な若者だった。
だが、『闇に吠える街』については、誰も、もしかするとスプリングスティーン自身も何をしようとしているのか分かっていなかった。バンドは次々に曲を覚え、中にはヒットしそうなものもあったが、スプリングスティーンは興味を示さなかった。この頃、彼は「ビコーズ・ザ・ナイト」をパンクスターのパティ・スミスに譲って、それが彼女の一大ヒットとなり、「ファイア」をポインター・シスターズに提供し、それもまた彼女たちの最大のヒットとなった。更にゲイリー・U.S.・ボンズに譲った「ディス・リトル・ガール」はボンズにとって約20年ぶりのヒットになった。もっと古い「ザ・フィーヴァー」や「トーク・トゥ・ミー」といった曲はサウスサイド・ジョニー&ジ・アズベリー・ジュークスに、「ランデヴー」はグレッグ・キーンのものとなった。「ある意味、まったく悲しい話ではあるよ。ブルースは歴史に残る最高のポップソングライターになろうと思えばなれたんだ」。Eストリート・バンドのギタリストであり、スプリングスティーンの引き立て役でも、オルターエゴでもあるスティーヴィー・ヴァン・ザントは、『闇に吠える街』のドキュメンタリーの中でそう話すが、それは皮肉ではない。
スプリングスティーンは自分が最高のポップソングライターを目指しているのではない、ということだけには確信があった。ヒットが欲しい訳ではなく、『明日なき暴走』の二番煎じはまっぴらだった。何か主張をしたかったし、「すべての誤解をはっきりさせたい」と思っていた。今回のゴールはロックンロール史上最高のアルバムを作ることではなく、もっと名状し難い何かを求めていた。「正直なアルバムを作りたい」というのがスプリングスティーンの言葉だった。バンドは「ザ・プロミス」のリハーサルとレコーディングに3か月を費やした。ぴんと来るものを求め続けて。
***
俺はずっと闘い続けだった
決して勝ち得ない闘いを
日に日に困難になっていくばかりだ
信じた夢を生きるのは
***
アリサでの仕事は単調で気が滅入った。確かにホームコメディ的な場面もなかった訳ではないけれど。私はまだ若かったし、そうした見方ができるくらいには距離を保っていた。私の上司は粗暴な男で私の箱の動かし方があまりうまくないことと、上司が自分の人生にうんざりしているということ以外に大した理由もなく、私を怒鳴りつけることを楽しんでいた。ある日、彼は私と他の倉庫係を数人、どこへ何をしに行くのか説明もないままトラックに乗せた。着いたのは富裕層の住む界隈で、工場のオーナーがソファを動かすのに人手が欲しかったのだということが分かった。そういう訳で私たちはソファを動かした。
倉庫係の中に冗談の通じない年輩の男がいて、若い連中が何人も辞めていくのを見ながら、自分はその間ずっと耐え抜いてきたのだという話を度々した。(私たちはそれで彼が得たものは一体何だったのかをたまに考えて、5ドルの時給だと結論した。)実際の仕事は不合理なもので、紡糸の箱を動かすのだけれど、こっちかと思えばあっち、あっちかと思えばこっちといった具合だった。更に、工場には「美人じゃないが素敵な」瓜二つの双子の姉妹までいて、工場勤めが長くなるほどに素敵に見えてきた。(やがて私は、納得してもらえるか分からないが、瓜二つの双子の特に可愛かった方を好きになった。けれど私のことを好きになったのはもう1人の方だったというのも、ホームコメディとしてはぴったりくる話だと思う。)
しかし、コメディかどうかはともかく、この場所、或いは仕事にはどこかおかしなところがあった。アリサとは来る日も来る日も来る日も来る日も続く終わりのない仕事だった。いつでも必ず積荷を降ろされるのを待っているトラックがあり、フロアを行き来しなければならず("Box ‘em up”[訳注:字義通りには行く手を遮る。運ぶべき箱と掛けた言い方で、「箱を運んで来い」などという意味ではないかと思います。]と上司は怒鳴ったものだ)、染色場まで走らなければならなかった。染色場は有毒で寒々しくて危険で、まるでディケンズの小説かバットマンの映画にでも出てきそうな所だった。その間、機械の低音や甲高い音や何かを打ちつける音などが絶え間なく聞こえ、あまりの音量で箱が揺れるほどだった。けれども私は、いつの間にかその騒音に、少なくとも工場にいる間は耳を閉ざすようになった。だが仕事の後、何時間も耳鳴りがして、夜中に目が覚めてもまだ機械の音が耳に鳴り響いていることがあった。
最初の2週間はアドレナリンと若さにものを言わせて乗り切り、次の2週間は初めての車を買うという期待にかけて乗り切った。しかし、その1か月が経った時には私は自分を鼓舞するものを最早持たなかった。私が仕事に行くのは、ただただ朝にベッドが蹴られ、私は父が階下で待っていることを知っていたからであり、どうやって辞めればいいのかも分からなかったからだ。とにかく1日中型通りの仕事をやり続けた。私は台車の扱いがうまくなり、どれだけ自分が屈強になったかを知って驚いた。しばしば箱と箱の間に隠れようとした。必要もないのに10キロ弱も体重が減った。疲れ切って言葉にし難い何かを執拗に求めながら家に帰った。そして翌朝になるとベッドが蹴られて、私は目を覚まし、着替えて準備を終えた父親の姿をぼんやりと認める。急いでジーンズを穿き、ポンティアックに乗り込むとまた同じことをすべて繰り返すのだ。
これが私の人生ではないと信じ、そのことで正気を保っていられたのだと思う。これが私の人生ではない。これは束の間のことだ。私は自分に何ができるか分からず、自分の人生を現実的に考えることができずにいた。18歳で、両親のアパートに住み、市大では会計学で落ちかけていて、これといった技術を何も持たないまま人生を漂っていた。私にあったのは若さだけだった。その若さがこれは私の人生ではない、そんな筈がない、これは父親の車を買い取って何かもっとすごいことを成し遂げるための夏の仕事に過ぎないと私に教えていた。いつか夏には終わりが来るのだと。(続く)