目次
◆2500年前の最大都市となったエフエソス
・前5世紀 ヘロドトス「歴史」が書かれたころのエーゲ海の地図です。
・アルテミスと2万4000人収容の巨大野外劇場 キリスト教の聖地 エーゲ海最大の古代都市エフェソス
・なじみの深いトルコ・イスタンブール
・エーゲ海最大の遺跡トルコのエフェソスが遂に2015年世界遺産に登録。
エフエソスの名前の由来・エフエソスの歴史 デロス同盟
・エフエソスの入り口はセルジュク
・大きすぎて 1日では廻れない
アルテミス神殿は石柱1本 荒野にぽつんと立つ ・復元図
・世界7不思議の1つ・高さ19m、直径1.2mの円柱を2列にならべ 合計127本も使っている。石柱の森。
・なぜこの大きな神殿を立てたか?
・ アルテミスとは何者 ・すごい乳房
広大なエフエソスの遺跡を歩く・クレオパトらが歩いた歩道を歩く。
・碁盤状の街並みは ミレトスと同じ都市計画・人類最初の商売 売春宿も 公衆トイレも
・キリスト教の聖地となる ・その理由。
・エフエソス滅亡
上流の森林乱獲で表土が港に流れ込み、それで港が4キロも後退した
・現地本「エフエソス」によるエフエソス滅亡の模様。
2500年前の最大都市となったエフエソス
前5世紀 ヘロドトス「歴史」が書かれたころのエーゲ海の地図です。
遺跡が大きすぎて 写真が撮れないので現地本「エフエソス」の写真を拝借。
アルテミスと2万4000人収容の巨大野外劇場 キリスト教の聖地 エーゲ海最大の古代都市エフェソス
トルコ以外の国では、エフェソス トルコではエペソス又はエフェスともいわれ、「野外劇場」と「エフェソスのアルテミス神殿」の2点だけで、いまやエーゲ海沿岸最大の集客力をほこる古代都市になった。
古代都市だから、今はエフェソスという町はない。5キロほど離れたセルチュクという小さな町が、出発点となっている。セルジュク・トルコという名前は世界史の授業で習ったことはあるが、現実のセルジュクは小さな町である。がここが我々3人、妻、娘、私の古代遺跡めぐりのスタート地点となった。紹介されていたガイドは、ここの個人営業主である。車持込、ホテル代持ちの、やや日本語がわかる願ってもないガイドである。
ここから、エーゲ海沿岸のエフエソス、すでに紹介したミレトス、ディディマ、プリエネ、さらに地中海沿岸に出て、水中に埋没した古代都市遺跡のあるカシュ、ケコワ島、岩に墓を掘った町ミラ、あちこちに火山の煙がでて誰も住ななくなったオリンポス、を経て、今やヨーロッパ最大のリゾートとなったアンタリアとその周辺都市まで、一週間のガイドつき遺跡めぐりである。
このコースは8年後、その逆のコースで、再び巡ったところである。
古代エフェソスという懐かしい響きをもつ都市名には、いくつもの歴史逸話や神話が伝えられている。
私のィスタンブールの定宿は世界遺産に登録されているスルタンアフメット地区のキベレホテルだ。
、このキベレホテルの名前の由来を当時はしらなかった。30室ばかりの小さなホテルだが、オーナーが日本語をしゃべり、親切だったので、彼の言うとおり、エーゲ海沿岸古代遺跡めぐりを始めるきっかけとなったのである。
以来、イスタンブールの定宿となった。イスタンといえば、キベレ、エフェソスと連想するくらい、私にはなじみのない深いホテルとなったのである。
またガイドも彼の推薦だった。車と行く先々のガイドも、スケジュールも、彼のアドバイスにしたがった。そのころ「地球の歩き方」など便利なものはなかったのであるがましてや、エーゲ海沿岸などは、だれも見向きもしないマイナーな地方だったのである。
なじみの深いトルコ・イスタンブール
娘が英国のカレッジからィスタンブールの大学を終えてそのまま同地にとどまり、国際的なホテルに勤めること13年。
道路から玄関まで10Mのぺーブメントの壁は白い壁にして、イズニックタイルを配し、階段にはオスマントルコ帝国のレリーフを1枚の絵にした6枚組みタイルを、はめ込んである。
にはトルコの国の花チュウリップの絵柄が舗装されている。畳みなしのフローリングの部屋はトルコカーペットがしかれており、壁にはメヂューサのお守りの「ブルーの目」がかけられている。
トルコカーペットはその繊細な、鮮やかな模様、手ざわりのよい、やさしいウールはすべて手作りであり、長持ちしている。
トルコを旅した人なら、この装飾は直ぐ気づくのである。
エーゲ海最大の遺跡トルコのエフェソスが遂に2015年世界遺産に登録。
・古代都市遺跡群
・近郊のアルテミス神殿
・聖マリア教会
が対象である。
この遺跡には1992年2000年、2回訪問した。
私の「古代遺跡廻り」のきっかけとなった思い出の遺跡である。
◎この遺跡の規模は本家ローマに次ぐ巨大さである。大きいのである。
今まで世界遺産に登録されなかったのはトルコ政府がいまだにこの地域を開発中で全体の20%ぐらいしか未だ発掘していないからである。
トルコはイスタンブールという類まれな国際観光都市をもち、エーゲ海沿いにはトロイ遺跡を初め数々の古代遺跡が並んでいる。
外国からの観光客には不自由しない国なのである。
世界遺産登録など殆ど気にしないのである。
そしてエーゲ海沿いには無数と言ってよいほどの古代遺跡がアチコチに散逸し、ほったらかしにされているのである。
エフェソスを特長づけるものは
1 2万5千人収容の巨大な野外劇場
2 古代ローマ時代の最大のセルシウス図書館
2 聖ヨハネ キリストの聖母マリアの終焉の地。
キリスト教徒にとっての聖地
3 古代7不思議の1つ、アルテミス神殿
などである。
エフエソスといえばアルテミス神殿、古代3大神殿はエーゲ海沿岸の都市ミレトスの衛生都市だったディディマ、シチリアのセリヌンテにあるヘラ神殿 そしてこのエフェソスのアルテミス神殿である。
エフエソスのアルテミス神殿遺跡で現存するのは、この1本の石柱だけである。
エフエソスの名前
フエソスという地名そのものは、勇猛な女族アマゾンの女王、アパソスに因んでいるが、アパソスとはヒッタイトで用いられていたアパサス、つまり蜜蜂に起源をもつ。アマゾンの女王、強い女、女王蜂を連想させる。
エフェソスで使われていた貨幣には、ミツバチの印が彫られている。
当然に、エフェソスの守護神はアパソスが崇拝していた狩猟の女王、アルテミスだ。弓を片手に野山を駆け巡る処女アルテミスは、古い時代アナトリアの豊穣の女神、キベレと結びついていた。このキベレ、じつは前7千年というはるか昔に栄えたアナトリアの都チャタルホイックの地母神像であったのである。
アルテミスはまたの名をダイアナという。イギリスの今は亡きダイアナ妃を連想されるる。
トルコでは聖書時代はエペソス 現代はエフェスと呼ぶ。トルコ以外の国では、エフェソスと呼ぶ
紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの「歴史」には「エペソス」の名前で出てくる。
旧約聖書にも「エペソス人に告ぐ」と出てくる。
エフエソスの歴史 デロス同盟
これらの史実は歴史の父といわれるヘロドトス(BC480~BC410頃)の「歴史」の中核をなす記述で後世に詳しく伝えている。
ペルシャ軍の侵攻にギリシャのアテネ スパルタは共同して対抗ペルシャとの戦争を始めた。
「ペルシャ戦争BC492~480」である。
サラミス海戦で大敵ペルシャを破り ギリシャが勝利した。
勝利後すぐアテネとエフエソスを含むイオニアの都市は「デロス同盟」を結び、ギリシャイオニア アナトリアからギリシャ軍を追放したが、ペルシャのギリシャへの干渉はずーとつづいたのである。
エフエソスはこの同盟の発足時BC478年に金を払いBC436年まで毎年寄付をしている。
アレキサンダー大帝期
アレキサンダー大王がマケドニアから出発してギリシャ イオニアのエフエソスを支配したのがBC334年のことである。
そのごオリエントを統一しヘレニズム文化の花が開く。エフエソスは徐々に発展していったのである。
ローマ帝国期 ・・・・エフエソスはアジア最大の首都となる。
BC33年。共和制ローマ最末期に三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共にこの地に滞在した。
クレオパトラはアントニウスに200艘の船を提供、アントニウスの軍は800艘の艦隊になったが、アクチュームの海戦でオクタビアヌスに敗れ、BC31年エジプトに逃れた。間もなく両人は自殺した。
勝利したオクタビアヌスはBC27年ローマ元老院の決定で皇帝となり、アウグストスと改名した。
エフエソスの入り口はセルジュク
古代都市だから、今はエフェソスという町は現存しない。5キロほど離れたセルチュクという小さな町が、エフェソス観光の出発点となっている。セルジュク・トルコという名前は世界史の授業で習ったことはあるが、現実のセルジュクは小さな町である。
エフェソス人が、世界の7不思議といわれ、また古代3大神殿といわれる巨大なアルテミス神殿を何故作ったのか、直ぐ近くにサモス島という街があり、そこで巨大なヘラ神殿を作ったから それと対抗するために建設したのだ。
大きすぎて 1日では廻れない
アルテミス神殿は石柱1本 荒野にぽつんと立つ。
アルテミス神殿 復元図
この遺跡は大きすぎて、ざーと一巡するだけでも1日はかかる。
セルジュクから一番ちかい「アルテミス神殿」の今に残る石柱1本見てもそのときは)何も感慨は沸かない。ただの荒野にたたずむ石柱 高さ20メーターぐらいのものだ。
世界7不思議の1つ、エフエソスのアルテミス
「私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。
エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。
一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。
ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。
巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。」
世界の7不思議なるものを、はじめて世に出した前3世紀の歴史家
フイロンが、アリテミス神殿を見たときのオドロキを、こう表現している。
ところが 現実には荒野のなかにぽつんとアルテミス神殿は石柱が1本残っているだけだ。高さ20メーターほどの大理石があるだけだ。
とても過去の優美さ 壮麗さなどは想像できない。
それはほど近いエフェソス考古学博物館にいって、なかに展示してあるアルテミス像と神殿の復元図<写真参照>をみてはじめて「そうだったんだ」と納得がゆく。
。
この神殿はBC570年に建設されて以来過去7回破壊され そのたびに再建されてきたという、本当は紀元前700年ごろ建設されたと言うが、歴史の史実として現在確認できるのは大英博物館所蔵の石柱に「クオイッソス贈呈す」と刻まれているからだという。
クロイッソスとは隣国リディアの王でBC561から541年まで在位していた。ヘロドトスもこの碑文は本物だと認めている。
高さ19m、直径1.2mの円柱を2列にならべ 合計127本も使っている。
さながら“石柱の森”といいう感じをうける。
幅55.10M×115.14Mというこの神殿の壮大さと大きな女神アルテミス像が世界の七不思議の一つといわれる所以である。。
では何故このような巨大神殿を作ったか
ガイド本「エフェソス」にはこう書いている。
「BC570年を目前にサモスでロイコスとテオドロスの2人の設計者によって完成した新しいヘラ神殿が人々の大いなる注目を集めたことに好敵手であるエフェソス人は心中穏やかでなく 早速サモスのヘラ神殿は勿論のこと かって見たこともない壮大なアルテミス神殿の建設を決めた。この大事業のためにエフェソス人はクノッソスの建築家ケルスイフオンとその息子メタネゲスを監督責任者に任じ、建設予定地がヘラ神殿と同様、沼地であったため ヘラの建築者テオドロスもこの建築に参加させた。テオドロスは基礎工事を始める前に沼地に石炭を敷き、その上に皮で覆って固めたという。こうして55.10×115.14Mのすべての面で完ぺきな神殿を完成させた
今までに作られた大理石使用の神殿としては最大の規模を誇った」
アルテミスとは何者?
アナトリア地方には古くから多産の象徴として胸や腰 性器が誇張された像が出土している。これらは“キベレ”女神と称され、礼拝の対象」となっている。
アルテミスとは、後に新約聖書「エペソ人への手紙」<エペソはエフェソスのこと>のなかの「ダイアナ」というローマ名のことをいい、この名前のほうが有名になった女神である。
女神の呼称はエジプトでは「イスス」 アラブでは「ラトウ」 アナトリアでは「キベレ」 ギリシャでは「アルテミス」「ダイアナ」と呼ぶ。
エフェソスはギリシャ文明の周辺都市として栄えたので「アルテミス」と呼ばれている・
大きい乳房は何を意味するか。
エフェソス考古学博物館にあるアルテミス像は多くの乳房をもつアルテミスの像は豊穣、狩猟と野生の生命の象徴であった。
この乳房を「多産」のシンボルとされているが、これには諸説がある。7個づつ横3列に、計21個並ぶ乳房。
乳房にしては、乳首がないではないか。
ミツバチの巣ではないのか。ミツバチは古来アナトリアのシンボルであり、エフェソスの国の象徴であった。地元の通貨にもこの絵柄が使われているほどだ。
またあれは、雄牛の睾丸だ、女神にささげられた睾丸であり、睾丸は「種」を作り出すから、豊作の象徴である、とか。
通称アルテミシオンがある周辺は、風の吹く丘の近くで、平野だった。
ギリシャのオリンピアの聖地が海へ出られる川岸に位置していたのと同じで、当時は、海からも、陸からも、巡礼にやってきていたのだ。
この神殿は、深さ15メートルの沖積土の中に埋もれていたものを、エフェソスのシェリーマンといわれるイギリス人ウッドが例の野外劇場で発見した碑文<写真>を元に、1870年、掘り当てたのである。
彼によると、この周辺には、古代ローマ時代よりも、もっと昔のギリシャ時代の町があるはずだ、というのである。
エフェソスのアルテミス、は前7世紀にたてられて以来、7度破壊され、7度再建された。アレキサンダー大王死後のヘレニズム時代には、「世界の7不思議」の1つに数えられたほどの巨大さを誇る壮麗な建物であった。高さ19Mの円柱が127本林立させ、その中には東方的な顔つきをした数十の乳房をもつアルテミスが安置されていた。
とされている。エフェソスといえばアルテミス神殿、古代3大神殿はエーゲ海沿岸の大都市ミレトスの衛生都市だったディディマのアポロ神殿、サモス島のヘラ神殿 そしてこのエフェソスのアルテミス神殿である。共に、大理石で建築されている。サモス島はミレトスからすぐまん前に見えるギリシャの島である。
世界7不思議の数えられるこの神殿はイオニック・ギリシャ建築で、その大きさたるや、まさしくアテネのパルテノンをしのぐものだった。そして中に立てられたアルテミス女神の大きさも想像を絶したに違いない。
何故柱が1本しか残っていなかったかというと、ローマ皇帝ユステイアヌスがキリスト大聖堂を建てたとき、ここの石柱をほとんど流用したからだ。
その教会は、町を見下ろす城壁の中にある。
そして、この教会にローマ法王パウロ6世が、1967年7月に詣でている。
古代3大巨大神殿がある、ディディマ。
前6世紀 地中海最大の交易都市であったミレトスと、その南 15キロのところにあるディディマは、古代には彫像の並ぶ立派な参道で結ばれていた。ディディマの巨大なアポロ神殿は大都市ミレトスの周辺都市として信仰の中心であり、神託の地として、古代世界では、エフエソスのアルテミス神殿、サモス島のヘラ神殿と並ぶ、三大神殿として、多くの人をあつめる壮大なものであった。
ディディマ
長さ109m×横51mという巨大な建物が、7段の台石の上にのり、124本の柱がそびえていた。現代に残る巨大な円柱は直径2.4M 高さ19.7Mで、本殿もその周囲の2重列柱も大理石で覆われていた。
それが歩いて10分ぐらいのところにある「エフェソス考古学博物館」に行くと中にはいるとバカでかい奇怪な女神が2体目に入る。何よりもその乳房がすごいのだ。7個づつ横3列にならんだ乳房は、多産を意味する、と説明される。
だが)これを書いている現代では、「雄牛のこう丸」が通説なっている。
このアルテミスはコピーであり、復元図をみると何とも巨大なアルテミス像なのである。
原材料は真っ白い大理石だという。どこからもってきたのだろう。どうして運んだのだろう。古代人の知恵を知りたい。
広大なエフエソスの遺跡を歩く
そのセルジュクから車で10分も走らないうちにエフェソス遺跡につく。
マグネシア門からはいると真っ先にオデオン(音楽堂)がある。
音楽堂で朗々とオペラを歌う旅人
山肌に張り付くように作られている。これが演劇専門の劇場だ。見世物や剣闘士の試合をみせる大劇場は別にあるという。演劇専門の劇場を作った古代人の趣味と生活レベルの高さに驚く。
まだ整備中だ。そこで面白い出し物をみた。ドイツ人らしい男性が朗々と
オペラのアリアを歌いだしたのである。時ならぬ歌声にしばし 耳を傾ける。
古代人がやったように、われわれもその歌声に酔いしれる。
至福のひと時だ。日本では味わえない経験だ。
はるか地球の裏側で、古代劇場でオペラを聞こうとは、こんな経験をする日本人は余りいないだろう、と話ながら 旅の醍醐味をあじわう。
白い大理石が敷き詰められた石畳の上を歩く
クレオパトらが歩いた歩道を歩く。
碁盤状の街並みは ミレトスと同じ都市計画
正面の遠くにセルシウス図書館がある。印象的だ。
エフェソスの町はミレトスの町を設計したヒッポダモスの碁盤状の都市計画がなされている町だ。ミレトスは紀元前6世紀から ペルシャ戦争時代に最盛期を迎えたイオニア屈指の町である。
西方のエーゲ海へ通じる道 ハーバー通り<アルカデイア通り>があり。キリストが生れる前の時代エジプトのクレオパトラがローマのアントニウスとこの地に2度滞在、ハーバー通りからクレテイア通りを散策したという記録がある。
この崩れた都市の光景をみながら大理石の石畳をゆっくりと下る時の感覚は何ともいえない不思議な感じにとらわれる。
写真では味わえない感覚、そこにいる者しか味わえない臨場覚。
2500年前の道をそのまま、その上を歩いている。形容しがたい感動にひたれる。
御影石でできた列柱。
世にある多くの遺跡は人工の手が入り、加工されているが、ここでは違う。
当時のそのままの石畳、石柱がある。
それを過ぎると列柱群に差し掛かる。殆ど白の世界だ。大理石の石柱が両側に並ぶ。ローマ皇帝の名前を冠した皇帝崇拝殿 ドミテイアヌス神殿のH型門がみえる。ガイドによるとローマ皇帝の名前をつけた皇帝神殿は 皇帝の許可が要った。エフェソスでは4つしかないという。その第一号がドミテアアヌス神殿だという。 .
それをすぎると目抜き通り「クレテイア通り」に出る。クレテイアとはクレタ島の神の名前で、聖職者の意味で使う。斜面の上のほうにあるため眺望がすばらしい。両側に不規則に並ぶ列柱。長短さまざま形に折れ往時の面影をいろいろと想像させる。
ヘラクレス門の浮彫り、トラヤヌスの泉、崩れ落ちた浴場、コリント式のアーチが美しいハドリアヌス神殿の入り口の真上に、メドゥーサ彫刻がある。
建物の壁は崩れ、円柱は折れ、瓦礫の山 雑草の野原が続くが、今 自分たちは 現に2500年まえの目抜き通りをゆっくりと歩きながら、談笑」している。この実感は何ものにも代えがたい。
白い大理石で覆われた石畳を歩いてゆくと4つの柱と2階建ての石柱が目に入る。セルシウス図書館だ。
古代アレキサンドリア図書館 ベルガモン図書館に次ぐ蔵書(約1万2千本の巻書)を誇っていた。現実の図書館は中は空虚で空っぽ。真青な空がみえるのである。
古代の配置図
ただ前面はコリント式の円柱が対をなし4組ずつ2層に並べてあるだけである。
262年ゴート族の侵入で焼き討ちされたままである。
人類最初の商売 売春宿も 公衆トイレも
ここを少し行くと右へ曲がる その交差点近くに当時の風俗店の印が残っている「愛の家」 娼婦の家である。その道を示す広告の浮き彫りが石畳にのこってりる。最も古い商売の形である。この家は共同便所 大浴場にも繋がっていた。1年中 無休だったようだ。
売春宿
公衆トイレ
2万4千人収容の大劇場 大きすぎて全体像の写真がない。「エフェソス」本から
すこし北へ行くとエフェソス遺跡の目玉 大劇場がある。2万4千人収容の巨大劇場である。山肌に張り付くように斜面に設計された円形劇場はローマのコロシアムに次ぐ大きさである
その前に広い 幅11メーター 全長500メーターという壮大な通りが港まで続いていた。両側には屋根つきの柱廊が延々と続き、床にはモザイク装飾、
50本の壮麗な街灯が点々と配置されていた。
いまは途中できれていて草ボウボウだ。
港が4キロも先になった。土砂で埋まり 街が後に退いたのだ、
往時には港には帆船が停泊し太陽が海の向こうに沈む頃、松明の街灯に火がともされ、人々が談笑しながら港へ散歩にでたであろう姿が 想像されるのである。
エーゲ海の水平線が 街灯のかなたへ没してゆく。
「人は誰も2度と同じ水で足を洗うことは出来ない。なぜならすべては流転し。かわりゆくものだからである」
古代の詩人の言葉である。
キリスト教の聖地となる
聖パウロと聖ヨハネ・・・キリスト教伝道者とキリストの聖母マリア エフエソスに死す
聖母マリア像
AD1世紀 最大で最も重要な古代都市となったエフエソスは ユダヤ教徒に対して信仰の自由を保証していた。
しかしエルサレムで興った新しい宗教 キリスト教が徐々に浸透し始めた。
AD42年 キリスト教伝道者はエルサレムを追放された。
伝道者聖パウロ 聖ヨハネ 聖母マリアは53年エフエソスを訪ねた
彼らはキリストの布教活動をおこない3年間でめざましい成果をあげ 聖パウロはマケドニアへ移っていった。
しかし聖ヨハネは聖母マリアとともにエフエソスに留まり、キリスト教の普及に努め この地に没した。
イエス・キリストの12使徒のうちイエスに最も信頼された聖パウロと聖ヨハネの2人がすごしたのも、そして聖母マリアが最後に過ごす地に選んだのも、ここエフェソスだった。
その後 彼の功績を讃え、聖ヨハネ教会が建立された。聖母マリアの家も建立された。
ヨハネはこの地で「福音書」を書いている
4世紀以降キリスト教が公認されると、エフェソスはたびたび教会会議や公会議の舞台となった。
エフェソス キリスト教の巡礼地となる
その理由。
この町はイオニア(トルコのエーゲ海沿岸地方)第一の都市であり、西暦紀元の最初の数世紀はローマのアジア支配の総督府がおかれていた首都の町だ。
西暦のはじめごろエルサレムを追放されて逃れてきた聖ヨハネ、聖パウロ、聖母マリアがエフエソスへ来てキリスト教を布教し始め、またたくまに1千年も続いた古代神、いうなれば多神教の座を奪い、一神教であるキリスト教が根付き始めたのだ。
聖パウロは53年にエフェソスへ入り、3年間のうちに多数の信者を獲得した。後にキリスト教会の設置を実現している。だがこの新しい宗教の目覚しい普及に危機感を抱いた住民、特にアルテミス像の銀細工師たちを中心に 大劇場に民衆を集め「アルテミス万歳、アルテミス万歳」と叫び 民衆を煽動した。
聖パウロはその静め役を希望したが 叶わず、その後マケドニアに赴いた。
そしてローマに移り、城壁の外で打ち首にされている。
エフェソスでは聖パウロの後に聖ヨハネがエフェソス教会の指導者についた。
聖ヨハネはアナトリアを布教の旅をつづけたが、ペルガモン、イズミールでも反対勢力に会い、ローマにつれてゆかれ拷問にあっている。
行く先先で受難にあっているのである。
晩年 エフェソスに帰り その地で没した。彼の名前を冠した「聖ヨハネ教会」があり、その地下でかれは眠っている。
聖母マリアはイエスが処刑されてから弟子のヨハネと共にエルサレムを去りエフェソスへきて、この地で没している。
エフエソスの発掘中の一番高いところに登ってゆくと「聖母マリアの家」という廃墟にちかい建物がある。聖母マリアとはイエス・キリストの母である。
この建物が聖母マリアの住んでいた家であるその由来についてはドイツの尼僧が1878年に夢の中で「マリアの家」をみたと論文に書き、その場所に近いところに同じ家が発見された。いろいろ議論の末に、遂にローマ法王ジョン23世が1961年に「ここは巡礼すべき場所である」と断言した。
ここにエフェソスがローマカソリック教徒にとって巡礼すべき聖地となったのである。1867年のポール6世 1979年のジョン・ポール2世の訪問が続いている。
エフェソスには常に信仰の自由がありその最大はアルテミシス女神であった。
それに取って代わったのがキリスト教であり、イエス使徒12人のうち聖パウロ 聖ヨハネとその生みの親といわれる聖母マリアも住まいをエフェソスに構えている。聖母マリアに最初に捧げられた教会「聖母マリアの教会」もエフェソスに建てられその教会で431年「第3次エフェソス公会議」が開催されている。
コンスタノーブル エジプトのアレキサンドリア、シリアのアンチオキヤなど大司教ら200人が集まりキリストの本質、教義が討論された。
この会議で初めて「聖母マリア」がエフェソスに埋葬されていることが公記録として 議事録に載っている。
エフエソス滅亡
上流の森林乱獲で表土が港に流れ込み、それで港が4キロも後退した
しかしアナトリア方面からメンデルス川に流れ出る土砂が港に堆積されはじめ紀元1世紀 その対策を取りはじめた。が効果が現れず、皇帝ハドリアヌスも対策に乗り出したが流れ込む土砂には抗すべくもなく、港は土砂で埋まるばかりであった。
原因は上流にあった森林が人間の乱獲でなくなりその後、植林しなかった。
ために表土が雨に流される期間が長く続き 下流の港にたまっていったのである。
環境考古学の第一人者安田教授が現地調査をしたその結論である。
4世紀には殆ど港が4.5キロも後退して港町 交易の町は機能を失った。。西暦8世紀アラブの侵攻によりキリスト教会は破壊され、エフェソスは廃墟となった。19世紀半ばオーストリアの考古学者により発掘されるまで 歴史から消えていたのである。
現地本「エフエソス」によるエフエソス滅亡の模様。
現地で入手したソクラテスの頭部の彫刻。