古代遺跡めぐり再開。イスタンブール編 美女メドューサ特集①地下宮殿の台座となる。

2023-07-07 04:56:04 | 古代遺跡巡り1イスタンブル

 

古代遺跡めぐり再開1 イスタンブール編 目次

 美女メドューサ特集①地下宮殿の台座となる。

・イスタンブールは驚きの連続だった。

・君はボスポラスの海をみたことがあるか!!

・五木寛之の文に触発されて

・美女メドューサが逆さにされて 石柱の台座に

・聖徳太子よりも100年前に作られた地下宮殿

◆古代遺跡めぐり2 美女メドューサ特集②高級ブランドベルサーチのロゴと道端にゴロンと横たわる怖い顔のメドューサ

・絶世の美女だったメドゥーサが怪物になった理由

・レオナルド ダビンチの描いた「メヂューサの頭部」

・怖いメドューサ。 古代3大神殿の1つデイデイマアポロ神殿の梁

◆古代遺跡めぐり3 美女メヂューサ特集③自分の守り神としてアレキサンダー ローマ皇帝が胸に付ける。

・メヂューサとの出会い

・森のこころと文明

・歴史に登場し始めたのがBC8世紀ごろ 各地のメヂューサ。

古代遺跡めぐり4 イスタンブール散歩

・①アレキサンダー大王の石棺がある考古学博物館。

・大英博物館と違う点

・最大の目玉アレキサンダー大王の石棺。その詳細な解説

・陳列品

古代遺跡巡り5 イスタンブール散歩2 宮殿巡り。

・6本の尖塔もつブルーモスクの精緻な美しさ、千年の歴史をもつビザンテイン建築の至宝アヤソフイア

・スルタンの居城トプカピ宮殿 ・ハーレム

・4000軒の店が並ぶグランバザール。

・ボスポラス海峡クルージング

古代遺跡巡り6 イスタンブール総集編

 五木寛之のイスタンブール小景

 ・イスタンブールに魅せられて

 ・世界で一番親日的なトルコ その原因。トルコの学校の教科書に出てくる日本

 ・地政学上 重要な位置にあるイスタンブール

・Istanbulが「千年の都」「文明の十字路」と言われる理由。

・米国駐在員仲間とボスポラスヘ  2000年

3年間に及ぶ海外旅行封鎖がとけて、海外旅行が再開された。

しかし円安が進行し140円台になり、ウクライナ戦争により燃料が高騰し旅行費用も一変し、容易には手が届かなくなった。

トルコまでは10万円で行けたのが今では最低でも25万円かかるようになった。

それでも海外旅行熱は旺盛で旅番組の老舗テレビ朝日「旅サラダ」が毎週海外旅行を特集し始めた。その第1弾がトルコである。イスタンブール エフエソス ボドルム エーゲ海沿岸の街を毎週レポーターが現地に赴き取材して放送したのである。

私はトルコには6回足を運んでいる。

誰よりも、少しはトルコの事情はしっている。

「古代遺跡めぐり」を本ブログで再開しようと思う。

普通の観光ルポではない、別の視点からの読みものになると思う。

 

イスタンブール訪問

 

・1992年9月10日~23日  <平成4年>

・1994年6月1日~ 9日  <平成6年>

・1997年10月11日~17日<平成9年>

・1998年12月2日~14日 <平成10年>

・1999年4月7日~24日  <平成11年>

   以上妻 娘と

・2000年4月4日~14日 <平成12年>

 米国駐在時代の仲間 成田 鈴木 工藤 庄武

 

 

 

イスタンブールは驚きの連続だった。

君はボスポラスの海をみたことがあるか!!

・五木寛之の文に触発されて

・美女メドューサが逆さにされて 石柱の台座に

・聖徳太子よりも100年前に作られた地下宮殿

 

五木寛之という作家がいる、彼は早稲田大学時代の行状を「青春の門」にまとめ、今でも文庫本でも売れているベストセラー作家である。
彼の随筆「世界漂流」の中で、イスタンブールの夜景のすばらしさを描いた「イスタンブール小景」がある。

イスタンブールの魅力を余すところまく伝えている。


「イスタンブールは初めてである。ボスポラス海峡もまだ見たことがない、予定では夜9時に到着するはずのTK852便は夜中の12時近くにようやくイスタンブールへ到着する。暗いので途中何もわからない。
ホテルはあの有名なベラ・ホテルの向かい側、ホテル・エタップ・イスタンブールというところだ。どうやら金角湾をはさんでヨーロッパ側の北岸にあるホテルらしい。
着いてみて、コンクリート打ちっぱなしの例の味もそっけない建物の外観にがっかりする。ロビーも狭く、漫然としたホテルだが、一つだけ意外な拾い物があった。
向かい側のベラ・パレスは、英国風の古きよきたたずまいで、いかにもアガサ・クルステイ女史が、オリエント特急を舞台にしたミステリーの構想を練ったという伝説にふさわしいホテルである。
しかしアメリカ風のシンプルな部屋に通されて、ビジネスホテルみたいだぜ・・とぶつぶつ云いながら窓のカーテンを大きく開けた瞬間、たちまち愕然として、その場にうづくっまってしまった
時は夜半
季節は9月。
左手に銀色に輝く海が見える。海峡だ。銀色に輝いているのは、空にかかった鏡のような月だ。その海面がボスポラス海峡だと気づいて、思わず、エセーニンの詩の一節を読んでしまった。


君はボスポラスの海を見たか!!」


見た 見た、それも月光にきらめく地上の銀河のような海峡をだ。
対岸に黒く低くうづくまるのがアジアだ。
右手に視線をずらす。地上から投射される照明の中に、くっきりと浮かびおあがっている緑色の屋根の建物、あれはトプカプ宮殿に違いない。
さらに右手にそびえているイスラム風のモスクとミナレットのシルエットは有名なアヤ・ソフイア寺院だろうか。そうだとする、その隣りのモスクは、ブルーモスクに違いない。夢のように空中に浮かべあがってみえる。・・
この晩のホテルの窓からの夜景を ここで文章で説明することは不可能だ」

 


五木寛之は自分より少し年上で早稲田の露文だが、ベストセラー「青春の門」で当時の内灘闘争、学生運動のハシリを克明に描いている。主人公は私とおなじ九州だしバイトで大学に行きながら学生運動にめり込んでゆく様は、私と似ている。主人公は筑豊炭鉱育ちだが、私も夏休み2ヶ月間筑豊の同級生の家にいて、炭鉱内に入っていったこともある。

私は安保世代だし、法学生だった。

五木とほぼおなじ時代の空気と挫折を知っているのである。

私はこの文に触発されてイスタンブールに行く気になったのである。


その頃長女がロンドンのカレッジを終えて、トルコのアンカラ大学に留学していた。「いろいろあって面白いよ、来ませんか・・

と誘われていた。

この文を読んで、急に直ぐにでも行きたくなった。


当然泊るところはエタップだ。行く月も9月だった。
< 正式名はpullman etap istanbul >。このホテル今はない。
妻と2人で、トルコ航空に乗っていった。機内は、それはオリエント世界さながらの人種の見本市だ。美しいペルシア系の婦人、絵に描いたような美人が、アチコチにいる。それに比べると日本人の何と平べったいことか。
夜半にホテルについた。が、残念だが、部屋の取り方が悪かった、娘が習いたてのトルコ語が良くしゃべれなかったのか、五木の泊まったところとは、反対側の住宅街に向いた部屋だった。

屋上に上がってみようと3人であがってみた。そこに展開された夜景は、五木寛之がまさしく見た風景とおなじモノを見ることがたのである。神の配慮か

 

初めてのイスタンブール 

「イスタンブールは初めてである。ボスポラス海峡もまだ見たことがない、予定では夜9時に到着するはずのTK852便は夜中の12時近くにようやくイスタンブールへ到着する。暗いので途中何もわからない。
ホテルはあの有名なベラ・ホテルの向かい側、ホテル・エタップ・イスタンブールというところだ。どうやら金角湾をはさんでヨーロッパ側の北岸にあるホテルらしい。
着いてみて、コンクリート打ちっぱなしの例の味もそっけない建物の外観にがっかりする。ロビーも狭く、漫然としたホテルだが、一つだけ意外な拾い物があった。
向かい側のベラ・パレスは、英国風の古きよきたたずまいで、いかにもアガサ・クルステイ女史が、オリエント特急を舞台にしたミステリーの構想を練ったという伝説にふさわしいホテルである。
しかしアメリカ風のシンプルな部屋に通されて、ビジネスホテルみたいだぜ・・とぶつぶつ云いながら窓のカーテンを大きく開けた瞬間、たちまち愕然として、その場にうづくっまってしまった
時は夜半
季節は9月。
左手に銀色に輝く海が見える。海峡だ。銀色に輝いているのは、空にかかった鏡のような月だ。その海面がボスポラス海峡だ。

 

巨大な地下の空間 地下宮殿 6世紀に建設

 奥の石柱の台座に美女メヂューサが逆さに。

暗くてよくわからないのでイスタンブールのHPから

 

翌日は世界遺産イスタンブール歴史地区のど真ん中のホテルキベレに移り 早速歩いて2分のところにある「地下宮殿」へ赴く。

イスタンブールへ旅行して 行ったのがこの地下宮殿であった。

 入り口は変哲もない小さな看板が架かっているだけの遺跡だが、深さ20メートルの階段を下りてゆくと

ライトに照らされて石の列柱が水面に浮かび 闇に映える光景はまさに幻想の世界である。天井から滴り落ちる水で足元はヌルヌルして少しバランスを崩すと転びそうである。

高さ9メーターの石柱が並び アーチを組んで天井を支えている。

水面は透明で魚が泳いでいる。まるで水の宮殿である。

奇妙な光景だった。

柱は規則正しく並んでおり 何十本とある。一番奥にゆくと柱の台座には人間の顔をした彫刻が1つは横向きになり、2本目は下向きになっている。

あとでわかったのだが、これが「メドューサ」だという。

こんな彫刻の顔が2つも柱の台座にされている。

なんというもったいないことをするのか、といぶかった。

ところがエーゲ海沿岸の古代遺跡を見て回った行く先には神殿の柱の上部には必ずメヂューサ像が飾られているのだ。

メドユーサは人間の守り神だったのが東ローマ帝国の首都としてコンスタンチノーブル<今のイスタンブール>へ遷都して以来 イスラムにより邪悪なものとして排斥され、首都の水がめとして作られた「地下宮殿」の基礎となる台座に転用された。

地下宮殿の由来

キリスト教が華麗なビザンテイン帝国の国教となった結果

逆さにされ、円柱の台座にされてしまった美女メドゥーサ

イスタンブールの旧市街全体が歴史地区として世界遺産になっている。トピカピ宮殿、アヤソフイア ブルーモスク 毎年4千万人の観光客が訪れる。

Yerebatan・Sarnici(イエレバタン・サルヌジュ)、日本語では「地下貯水池」と訳されている。イェレYereとは「地に」、バタンbatanは「沈んだ」という意味のトルコ語。

イエラバタン・サライ<地下宮殿>としての通り名がよい。

英語ではバシリカ・シスタン (Basilica Cistern) ユスチィニアヌス貯水槽ともいう。

この地下宮殿は東ローマ帝国時代の6世紀頃、ユスティニアヌス1世によって建設された。

オスマントルコ帝国時代に再発見され、トプカプ宮殿へも水を供給するようになる。

トプカピ宮殿にはそれまで水瓶で運んでいた。

1985年にイスタンブール市によって改めて修復され、1987年より一般公開を開始した。

私たちは5年後この地下宮殿を訪れたことになる。
柱は全て高さ9メートルで、4メートルおきに28本並んでおり、これが12列あるので全部で336本。柱の中には帝国内のあちこちから持ち込まれた再利用モノも含まれているため、種類も色々ある。

実はこの地下宮殿は、地下の貯水槽で、現存する東ローマ帝国の貯水槽としては最大のものだ。西暦550年頃にユスティニアヌス1世  によって建設されたこの貯水池は、アヤソフィアとトプカピ宮殿に水を供給するために作られたもので、近年までイスタンブールでその機能を果たしてきた唯一の貯水池だ。

336本の大理石円柱を備え、それぞれがレンガ造りの内壁であり。これによって78,000m³の水を貯えることができる。

1987 年に復元中に、泥の中 1 メートル下から2 つ大理石のメドゥーサの頭が発見された。 

これを建造したユステイアヌスは東ローマ帝国で最も有名で業績を残した皇帝である。

=== 塩野七生「ローマ人物語」最終の15巻「ローマ世界の終焉」から==========

565年  ユステイアヌス大帝は83歳という高齢で亡くなった。まれなる長命の死であった。

38年もつづいた治世だがその間に最大の領土を拡張し、最高の権威を誇り、最も繁栄したユステイアヌス時代が東ローマ帝国、ビザンテイン帝国の姿であった。

ビザンテイン帝国の歴史上最も有名な皇帝はユステイアヌスである。

その功績は

①「ローマ法大全」 

②ハギヤ ソフイアの建立(アヤソフイア) 

③旧西ローマ帝国領土の再複。

 キリスト教一色になった現代でも『3大大帝』とよばれるのはコンスタンテイノス テオドイシス ユステイアヌスの3人だけである。

この偉大な行程がこの巨大な地下宮殿を建設したのだ。

メドューサとは何者だ

メドューサはギリシャ神話に登場する怪物で、見た者を石に変える能力を持っていました。彼女はもともと美しい女性でしたが、海神ポセイドンとの密通を知った女神アテーナーによって醜い姿に変えられました。その後、英雄ペルセウスに首を切り落とされました1

地下宮殿の最も奥には、メドューサの頭が柱の土台部分にあります。このメドューサの頭は、古代ローマ時代の彫刻で、髪の毛が蛇になっていることや恐ろしい表情が特徴です。

メドューサの頭が地下宮殿の石柱の台になった理由は、明確ではありませんが、以下のような説があります。

なにしろ1500年も前、日本でいえば聖徳太子のじだいよりもさらに100年ほど前にさかのぼることなので、記録として残っていない。

現物の遺跡として残っているのみである。

ところがこのメドューサ像 現代にも生き続けているのである。

高級ブランド ベルサーチのロゴ としてよみがえる。

 


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