教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論① 旧約時代における「新しい歌」と礼拝様式の変遷 <1>

2005-04-07 14:22:42 | 講義
<はじめに>
◆まず、旧約聖書の時代における「新しい歌」とその変遷について概観してみよう。

①1300 モーセ時代の幕屋礼拝・・・・動物によるいけにえ
②1000 ダビデ時代の幕屋礼拝・・・・賛美による礼拝様式、新しいいけにえ
③ 960 ソロモン時代の神殿礼拝・・・モーセの幕屋礼拝とダビデの幕屋礼拝との融合
④ 700 ヒゼキヤ時代の改革・・・・・・ ダビデの幕屋礼拝の回復
⑤ 622 ヨシヤ時代・・・・・・・・・・・・・・律法の書発見
⑥ 587 バビロン捕囚・・・・・・・・・・・・シナゴーグ礼拝(みことば礼拝)
⑦ 538 エルサレム帰還・・・・・・・・・・神殿礼拝の回復(歴代誌に見られるダビデの賛美礼拝の回復)
⑧ 450 エズラ・ネヘミヤ時代・・・・・・ 神殿礼拝とシナゴーグ礼拝


1. ダビデ以前の「新しい歌」・・・主の力ある歴史的な勝利を心に刻みこむ歌

(1) ミリアムの歌 (出エジプト記15章)

◆ダビデの時代以前において、神の民が主に対して歌った「新しい歌」があった。それは出エジプト記15章にある「ミリアムの歌」として知られている。リーダーのモーセは歌を導き、その姉の女預言者ミリアムはタンバリンを打ち鳴らして、女たちの踊りの先頭に立った。
「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」(1、2節)
◆エジプトの奴隷であったイスラエルの民は,その時代最も強力なエジプトの軍隊と海との間に挟まれて、どうすることもできない恐れと絶望の中にいた。ところが、人間の思いをはるかに越えた、驚くべき出来事が起こった。海は二つに割れ、民はその乾いた地を歩いて渡った。そして追っ手は海に投げ込まれたのである。イスラエルの民は新しい歌を歌った。なにゆえに歌うのか。王である主がすばらしいことをしてくだったからである。その内容は、神がこれこれのことをして下さったという神の偉大な御業のストーリーを語り、主に向かって感謝と賛美をささげることが彼らの礼拝であった。そして、この時代の歌はリズム楽器によって伴奏された。 

(2) デボラの歌 (士師記5章)

◆シセラに率いられたカナン軍に対するイスラエルの戦いにおいて、主が介入されたときに歌われている。しかし具体的にどのように歌われたのかは知ることができない。
「聞け、王たちよ。耳を傾けよ。君主たちよ。私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。・・キション川は彼らを押し流した。」(3節、21節)
◆カナン軍は進歩した装備を持っていた。また軍隊は職業軍人によって率いられていたのに対して、イスラエルは戦車もなく、率いていたのも武器さえもたない女性デボラであった。しかし戦いが起こったとき、川の水があふれ、土手が破れた。そのため敵の戦車の車輪は動かなくなり、敵は徒歩で逃げなければならなかった。イスラエルはこの哀れな敵を打ち破った。イスラエルの勝利は力のない者たちの勝利であり、自分たちを守ってくださった主を信頼する勝利であった。


2. ダビデの幕屋、および、ソロモン神殿における「新しい歌」・・・賛美の中に臨在される主

(1) モーセの幕屋礼拝

◆モーセの幕屋での礼拝においては動物の犠牲による礼拝が中心であり、「新しい歌」が歌われることはなかった。音といえば、大祭司が身につける服の裾につけられた鈴くらいのものであった。しかしそれは歌とはなんの関係もない。

(2) ダビデの幕屋礼拝

◆旧約時代において、礼拝に初めて音楽が用いられるようになったのはダビデの時からである。音楽はそれまで戦いのために、あるいは、戦勝の祝いのために用いられた。しかしダビデは神を礼拝するために歌や様々な楽器を用いたのである。詩篇150篇を見ると、角笛、十弦の琴、立琴、緒琴、笛、青銅のシンバル、ラッパなどの楽器で神をほめたたえるべきことを命じている。現代の楽器で言えば、弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器である。
◆ダビデがイスラエルの王となって最初にしたことは、それまで長い間放置されていた神の「契約の箱」―モーセの幕屋では至聖所に安置されていたもので、神の臨在を意味したーを敵から取り戻し、エルサレムのシオンに安置し、そこで賛美リーダーのアサフによって四六時中、絶えることのない賛美のいけにえをささげさせた。これがダビデの幕屋(天幕)である。
◆ダビデの幕屋礼拝の特徴は、喜びにあふれた賛美であり、終わりのない、継続的な賛美であった。また様々な楽器と熟練した者たちによる賛美であり、賛美の担い手は心と声を一つにする訓練が求められた。また、表現方法もただ一つの表現ではなく、あらゆる可能性を取り入れた。例えば大声で叫ぶ、手をたたく、手を上げる、踊りながら、頭をたれ、ひざまずいてというように。
◆ダビデの幕屋の礼拝神学の第一の特質は、<賛美の中に臨在される主>である。ダビデの幕屋礼拝においては、動物のいけにえではなく、霊的ないけにえーつまり「賛美のいけにえ」、「従順のいけにえ」、「感謝のいけにえ」、「喜びのいけにえ」、「砕かれた、悔いた心のいけにえ」「義のいけにえ」が、音楽を伴う歌と祈りを通してささげられた。こうした心の多様な感情的表現は、モーセの幕屋礼拝では乏しかった。ダビデの礼拝神学第二の特質は、<主の臨在こそ、わがいのち>である。ダビデは何にもまさって主の臨在を求めた。主の御顔を慕い求め、その麗しさに浸る。まさに、本質追求である。形式に捕らわれず、主の臨在を大切にした。新しい歌は、新しい皮袋を必要とした。

(3)ソロモンの神殿礼拝(第一神殿)

◆ダビデはシオンでの礼拝だけでなく、当時、ギブオンにあったモーセの幕屋にも側近の祭司ツァドクを遣わし、そこにヘマン、エタン(エドトン)らの有能な賛美リーダーを遣わした。この事実は、やがて建てられるソロモンの神殿において、動物の犠牲を土台としたモーセの幕屋礼拝の伝統を大切にしながら、音楽を伴う賛美を中心とした新しいダビデの幕屋礼拝とを統合し、イスラエルが神を礼拝する民として、より強化するヴィジョンの実現の準備であった。
◆ダビデの神殿礼拝の構想はソロモンにおいて実現し、定着するが、その組織と制度はまことに壮大なものであった。ダビデはレビ人3万8千人のうち、4千人を賛美のために選んだ。そこに見られる音楽は、詩とあいまって最高の芸術的領域にまで高められた。神殿礼拝の中軸は歌うことであり、その奏楽を司ったのが、他ならぬレビ人聖歌隊である。初期においては、聖歌隊自ら楽器を手にして歌ったと思われるが、後には、歌い手と奏楽がそれぞれを受け持った。組織的、専門的音楽家集団による礼拝がなされたのである。※注
◆こうした流れの中で数多くの「新しい歌」が生まれ出た。その後、神殿はバビロンによって崩壊する。バビロン捕囚とエルサレム帰還による神殿再建の経験ーその間、なんと600年間におよぶ苦難の経験―を通して新しい歌は生まれ続けた。その結集が、のちに〔詩篇〕としてまとめられた。詩篇は、まさに神とのいのちに満ちた交わりの歌であり、人生の様々な諸相の中で、神への嘆願、感謝、賛美、信仰告白があり、薄れることのないそのいのちは、今日においても大きな影響を与えている。

(4) ソロモン神殿礼拝の形骸化とヒゼキヤとヨシヤの改革

◆ソロモン以降のユダ王国において、歴代の王たちの周辺諸国との外交政策によって、神殿礼拝は次第に空洞化するようになっていく。アッシリアの脅威ゆえにユダの周辺諸国は軍事同盟を結ぶが、アハズはその同盟に加わらずにアッシリアの援助を求めた。しかしその代償は余りに高く、神殿と王宮の宝物倉を空にしてしまった。そのために神殿の祭司やレビ人はリストラされてしまった。アハズ王の子ヒゼキヤが王となったとき、彼はダビデ時代に制定された礼拝を回復した。
◆ヒゼキヤの子マナセ王の治世はユダにとって最悪の時代であった。預言者の空白時代を迎える半世紀にわたって神の民は神の声を聞くことはなかった。その後、マナセの子ヨシヤが即位し、神殿の中に律法の書を発見し、宗教改革を断行した。


(※注)
◆聖歌隊員たちは、おのおの25歳から30歳まで、5年間のトレーニングの期間を経て、通例、30歳から50歳までの20年間、神殿の儀式に奉仕した。50歳で引退するという点は、その年代の声質が一般に衰え始めるころとすれば、とりわけ不思議ではないが、一人前の聖歌隊員になる時期が30歳というのは比較的おそい年齢であり、聖歌隊員が、達人と呼ばれたことを察すると、実際には、その訓練の期間は、きわめて長くけわしいものだったに違いない。口伝で、しかも大部の複雑な音楽儀式の式次第と内容全体を暗記し、すべてのその詳細をマスターするには、彼らは結局、幼少のころから父たちについて励み、聖歌隊の正式メンバーになる直前の最後の5年間の徒弟期間で、規定された集中訓練を受けたと見るのが自然であろう。




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