昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

転載 縄文人の悠久なる旅20

2012-01-13 13:15:59 | 歴史・神秘
世界に旅立った縄文人たちは、何処を出発点にしたのだろうか。
色々な内外の研究者が発表したレポートから、次の3箇所を仮想する。
   伊豆諸島・神津島→南太平洋、南アメリカ大陸への出発点

   北海道・小樽周辺→ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸への出発点

   琉球列島・与那国島→インド洋、アフリカ・マダガスカル島への出発点

南太平洋とその先の南米大陸に船で島伝いに渡るとすると、どうしても伊豆諸島、小笠原諸島を経由して南下しなければならない。
東京から180キロ、最短ルートの伊豆半島・下田からでも60キロ地点に浮かぶ神津島の黒曜石が本州各地で出土している。

この黒曜石を持ち帰るには船を使わなければならないし、縄文人はこの黒曜石を携えてさらに先の八丈島にまで渡っている。
縄文人の航海民族としての才能は天与のものであった。

弥生人に追われて、北に逃れた縄文人たちは、東北・北海道を経てシベリアに渡った。
その出発港に想定できるのが、小樽周辺の海で、小樽市の手宮洞窟、隣の余市町のフゴッペ洞窟に日本海を渡ったと見られる船の絵が線刻で描かれていて、同じ船の絵がシベリアで発見されている。

南に向った縄文人たちは、琉球列島を南下した。
琉球列島の西端にあるのが与那国島で、この先台湾までは111キロしかなく、さらにはフイリピン、インドネシアと南下して航海していった。
与那国島では伝説に、はるか南に架空の理想郷「南与那国島」が有ると信じられ、その島を目指して渡る「出発の島」である。

石川県羽咋郡富来町、日本海に突き出た能登半島西岸の漁業の町である。
この町のヘラソ遺跡(縄文中期)から神津島産黒曜石の石器が出土した。

黒曜石は、火山ガラスとも言われ、剥片は鋭いナイフのようになり、縄文人が槍や弓の矢じりとして生きる為に欠かせない必需品であって、太平洋上に浮かぶ神津島から日本海のヘラソ遺跡まで400キロもあり、当時の船は丸太をくり抜いた船で、是だけの航海を難なくやり遂げていた。
黒曜石は他では本州で長野や箱根、伊豆半島、那須でも産出する事が縄文人は知っていた。

だが、縄文人は神津島の黒曜石に執着していたのか?それは重い黒曜石を人の背で運ぶより、船が大量搬送が出来、海伝いか川伝いが効率的であった。

さらに南の八丈島からも神津島の黒曜石が出土し、倉輪遺跡からはイノシシやイヌの骨が出て、ウリ坊と呼ばれるイノシシの子供を抱きかかえ、イヌも連れて航海していたのだろう。

糸魚川地方から産出されるヒスイも出土している。
能登半島のヘラソ遺跡はかって大陸にあった渤海国と結んだ福良港があったところ。

伊豆諸島各地からカツオを煮た遺構が出土しており、長期航海用の保存食を作ったのだろう。
神津島の郷土資料館に流れ着いた外国の物と思われる二艘の丸木船が保管されている。
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