昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

英霊の遺書や手紙・遺品8 山岡荘八の若き日

2015-04-30 04:29:50 | 歴史・神秘
小説家、山岡荘八氏は若き時従軍記者であった。この時代に一人の特攻隊員との濃密な接触があった。

昭和二十年、報道班員として鹿屋基地にあった後年の時代小説家、山岡荘八氏は死を目前に控えた青年達の明るさ、朗らかさが大きな謎だった。その謎を解いてみようと、氏は遂に一人の青年に目星をつけ、当時禁句であった質問をぶつけてみた。

相手は教師を勤めた経験もある西田高光中尉(死後少佐、二十三歳 大分県出身、海軍中尉、大分師範、予学13。第五筑波隊員。)である。この人物ならどんな質問を向けてもそのために動揺する気遣いなどはないと見込んだからである。
「この戦争に勝てると思っているか?」「負けても自分の犠牲に悔いはないか?」
「今日の心境に達するまでどの様な心理的葛藤を経験したか?」等である。

彼は重い口調で、現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期はは克服していること。そして最後にこう付け加えた。

「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしてもそのあとはどうなるのです・・・ おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう、民族の誇りに・・・」
西田高光少佐が孤独な思索の中で紡ぎだした結論である。彼等の出撃は作戦的には全く無意味、戦果は限りなく零に近いだろう。作戦上の効果を論ずるとしたら功利的観点に立つということだが、特攻出撃は功利の観点を超越したところにある発想のものだった。

西田少佐の言葉で「講和の条件にも」つながると見ているのはこの青年の冷静な知性を窺わせ、ただ敬服するしかない。だが重要なのは敗戦必死としても「その後の日本人の運命にひびく深刻な意味が「特攻」にはこもっているという、この一事である。
つまり「誇り」高き敗北を可能ならしめるか否かの問題である。そして現実に特攻死は誇るべき死であった。

敗戦は、当時の欧米帝国主義の視点で捉えれば、「民族追放」か「民族浄化」を意味する。
どんなによくても奴隷扱い、悪ければ皆殺しである。彼等の誇り高き死があったればこそ、
日本の存続を可能たらしめ、アジアの国々の独立の契機となったことは紛れもない事実である。

西田中尉は出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給されると、すぐに部下の片桐一飛曹を呼び出し、「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言いました。
片桐一飛曹は顔色を変えて、「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される…いりません!」と拒みました。
すると、西田中尉は、「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ。命令だ。受取れ。俺はな、靴で戦うのでは無い!」と答えたそうです。
彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうです

昭和二十年五月十一日 午前九時三十分前後、
皇国の一臣 高光
総てのものに感謝しつつ別れをつげん
明朝三時半起し。つきぬ名残もなしとせざる感あるも明日の必中の為に寝る。
只皇国の必勝を信じ
皇国民の一層の健闘を祈りつつ
一臣として常道をひたすらに歩き
悠久の大義に殉ぜん
二十年余の至らぬ限りを
明日の必中によりてこそいささか報へん
お父さん
お母さん
兄弟
そして教え子
その他の人々
さらば


西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。 真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、そこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてあった。
あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやく。その場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出された時だった。
「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした。文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 英霊の遺書や手紙・遺品7 女... | トップ | 靖國神社の風景  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・神秘」カテゴリの最新記事