ストーンサークルと伝承説話
ストーンサークル(環状列石)、メルヘル(立石)は、我が国では縄文遺跡に特有の構築物である。
中でも有名なのは、私の住む秋田県は、鹿角の縄文後期と 推定される大湯環状列石だ。
野中堂、万座の二遺跡が有るが、共に二重(内帯、外帯)の石組みが構築されている。
立石遺構は日時計の名で知られている。ドルメンなどと併せて巨石記念物と呼ばれている。
大湯環状列石は古くから祭祀遺跡説、墓地説などが有ったが、土中から人間の脂肪酸が検出されたところから、墓地説が決定的になっているが、現代人の考えるような墓地ではないのだ。
使用されている石材は七キロも離れた諸助山で算出する石英(せきえい)閃緑岩(せんりょくひんがん)である。
一見手頃な石を寄せ集めているようでは有るが、この石にこだわっている様だ。
緑色の石である、太古の昔から世界各地に緑色の石には霊力があり、死者をも蘇らせると信じられた。
中南米のマヤはヒスイで死者の仮面を作り、中国では死者の口中にヒスイを含ませる風習があり、三内丸山遺跡では、幼子の瓶に握りこぶし大の石が添えられて葬られていた。
南太平洋の小島ニューヘブリデス諸島周辺で倭人が追い求めた「重要物資」、当時の世界貨幣である宝貝(子安貝)と真珠を産していた。
さらに縄文土器を使い、環状列石などの巨石記念物を構築していた。
奈良時代、天皇は都(藤原京)の南の中軸線上に葬られた。
これは南=朱雀(すざく)をよみがえりの方向と考えた中国の道教思想に由来するもので、墓は蘇りの訓練所として 位置づけられていた。
こうした再生思想もきっと縄文時代から引き継がれてきたのであろう。
三内丸山の墓地から出てくる土器はわざわざ壊されていた、現在でも出棺の際、死者の茶碗を割る習慣が残っている事も縄文時代にさかのぼる風習であろう。
イギリスのストーンヘンジも大湯環状列石も、夏至の太陽に向けて石が並べられている。
道教思想でも夏は四季の中で最も盛んな季節と考えられ、それは南=朱雀と共に死者の蘇り、再生と関係が有るのだろう。
道教の不老不死思想はエジプトが起源とされる説があり、ピラミットは石の信仰の典型で、夏至の太陽の位置を意識して建造されている。
日本のストーンサークルの分布は、中部、関東から主に東北、北海道に偏在するというと特異な分布をしている。
しかも北に行くほど時代が下がるという傾向にあり、どうやら南から北へと伝わり、北でストーンサークル文化は黄金期に達したようで、その後発掘により伊豆方面に逆に南下して造営されたような痕跡がある。
土器の分布と併せて考えると、縄文時代の後期から晩期になると、東北地方から大移動し伊豆半島から伊豆諸島に移ったと考えられる。
突如として縄文晩期に三宅島で東北の青森県西津軽郡木造町の亀ヶ岡に出土した有名な亀ヶ岡式土器が現れ、東北から大挙して人が移動してきた事の証拠で、新島、 伊豆半島、相模湾、駿河湾にも展開し、鹿角製の離銛(魚体に突き刺さると先端の銛が外れ逃げないようにする漁具)やかえしの付いた釣り針が、彼等が漁労の民であったことを物語る。
やがて三内丸山の人々は伊豆半島を航海の基地として、大船団を作り南の理想郷に船出して行ったであろう姿を 遺構や遺跡、伝承話、風俗、習慣から証拠づけられている。
ではどのような船で遥かな彼方に乗り出したか?
「日本書記」にアウトリガー(丸木船に浮き状の丸太を着けたカヌー)あるいはカタマラン(双胴船、ダブルカヌー)を連想させる記述がある。
履中天皇三年冬十一月条に『天皇、両枝船を磐余市磯池にうかべたまう、皇妃とおのおの分かち乗りて遊びたまう』。
太古の昔から両枝船と呼ばれた双胴の構造を持った船が存在し、遠洋航海に使われた事は間違いの無い事で、 二股小船といわれるアウトリガーカヌーなどは、西はマダガスカル島から東はタヒチ、イースター島にかけて、インド洋、太平洋に広く分布している。
いずれある日を境に一斉に南太平洋を目指す大航海に旅立って行った。
その顕著な証拠はニューヘブリデス諸島のヤムイモ畑で発見された、青森津軽の土で作られた縄文式土器が雄弁に物語っている。
何年かかって到達したであろう、また何人の人が脱落し、多くの悲劇が演じられたであろう。
そしてどんな思いで、緑したたる常夏の島を眺めたであろう。
ストーンサークル(環状列石)、メルヘル(立石)は、我が国では縄文遺跡に特有の構築物である。
中でも有名なのは、私の住む秋田県は、鹿角の縄文後期と 推定される大湯環状列石だ。
野中堂、万座の二遺跡が有るが、共に二重(内帯、外帯)の石組みが構築されている。
立石遺構は日時計の名で知られている。ドルメンなどと併せて巨石記念物と呼ばれている。
大湯環状列石は古くから祭祀遺跡説、墓地説などが有ったが、土中から人間の脂肪酸が検出されたところから、墓地説が決定的になっているが、現代人の考えるような墓地ではないのだ。
使用されている石材は七キロも離れた諸助山で算出する石英(せきえい)閃緑岩(せんりょくひんがん)である。
一見手頃な石を寄せ集めているようでは有るが、この石にこだわっている様だ。
緑色の石である、太古の昔から世界各地に緑色の石には霊力があり、死者をも蘇らせると信じられた。
中南米のマヤはヒスイで死者の仮面を作り、中国では死者の口中にヒスイを含ませる風習があり、三内丸山遺跡では、幼子の瓶に握りこぶし大の石が添えられて葬られていた。
南太平洋の小島ニューヘブリデス諸島周辺で倭人が追い求めた「重要物資」、当時の世界貨幣である宝貝(子安貝)と真珠を産していた。
さらに縄文土器を使い、環状列石などの巨石記念物を構築していた。
奈良時代、天皇は都(藤原京)の南の中軸線上に葬られた。
これは南=朱雀(すざく)をよみがえりの方向と考えた中国の道教思想に由来するもので、墓は蘇りの訓練所として 位置づけられていた。
こうした再生思想もきっと縄文時代から引き継がれてきたのであろう。
三内丸山の墓地から出てくる土器はわざわざ壊されていた、現在でも出棺の際、死者の茶碗を割る習慣が残っている事も縄文時代にさかのぼる風習であろう。
イギリスのストーンヘンジも大湯環状列石も、夏至の太陽に向けて石が並べられている。
道教思想でも夏は四季の中で最も盛んな季節と考えられ、それは南=朱雀と共に死者の蘇り、再生と関係が有るのだろう。
道教の不老不死思想はエジプトが起源とされる説があり、ピラミットは石の信仰の典型で、夏至の太陽の位置を意識して建造されている。
日本のストーンサークルの分布は、中部、関東から主に東北、北海道に偏在するというと特異な分布をしている。
しかも北に行くほど時代が下がるという傾向にあり、どうやら南から北へと伝わり、北でストーンサークル文化は黄金期に達したようで、その後発掘により伊豆方面に逆に南下して造営されたような痕跡がある。
土器の分布と併せて考えると、縄文時代の後期から晩期になると、東北地方から大移動し伊豆半島から伊豆諸島に移ったと考えられる。
突如として縄文晩期に三宅島で東北の青森県西津軽郡木造町の亀ヶ岡に出土した有名な亀ヶ岡式土器が現れ、東北から大挙して人が移動してきた事の証拠で、新島、 伊豆半島、相模湾、駿河湾にも展開し、鹿角製の離銛(魚体に突き刺さると先端の銛が外れ逃げないようにする漁具)やかえしの付いた釣り針が、彼等が漁労の民であったことを物語る。
やがて三内丸山の人々は伊豆半島を航海の基地として、大船団を作り南の理想郷に船出して行ったであろう姿を 遺構や遺跡、伝承話、風俗、習慣から証拠づけられている。
ではどのような船で遥かな彼方に乗り出したか?
「日本書記」にアウトリガー(丸木船に浮き状の丸太を着けたカヌー)あるいはカタマラン(双胴船、ダブルカヌー)を連想させる記述がある。
履中天皇三年冬十一月条に『天皇、両枝船を磐余市磯池にうかべたまう、皇妃とおのおの分かち乗りて遊びたまう』。
太古の昔から両枝船と呼ばれた双胴の構造を持った船が存在し、遠洋航海に使われた事は間違いの無い事で、 二股小船といわれるアウトリガーカヌーなどは、西はマダガスカル島から東はタヒチ、イースター島にかけて、インド洋、太平洋に広く分布している。
いずれある日を境に一斉に南太平洋を目指す大航海に旅立って行った。
その顕著な証拠はニューヘブリデス諸島のヤムイモ畑で発見された、青森津軽の土で作られた縄文式土器が雄弁に物語っている。
何年かかって到達したであろう、また何人の人が脱落し、多くの悲劇が演じられたであろう。
そしてどんな思いで、緑したたる常夏の島を眺めたであろう。
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