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日本歴史紀行

歴史紀行 69 - 4 石橋山の戦い 佐奈田霊社 ねじり畑、与一塚、文三堂


佐奈田霊社
神奈川県小田原市石橋





ねじり畑〜佐奈田与一義忠 討死の地
この地で実のらせる作物は皆、ねじれてしまうそうです。




治承4年(1180年)8月23日、伊豆で挙兵し、目代の山木兼隆を討ち取り、源氏再興の旗揚げをした源頼朝ですが、本拠地とする鎌倉を目指すものの、箱根外輪山の南麓にあたる石橋山で平家方の大庭景親の軍勢と対峙します。


大庭景親軍との兵力は約三千、約三百を率いた頼朝軍の10倍にあたり、頼朝は頼みの綱とした三浦義澄の軍勢が酒匂川の増水により渡河できずにいた処で後方を伊東祐親の軍勢に固められてしまいました。

戦端を開くしかなくなった頼朝は、佐奈田与一義忠を先陣に命じ、ここに石橋山の戦いが始まります。


10倍もの兵力差がありながら頼朝軍は奮戦しますが、先陣の佐奈田与一義忠は徒士兵らを斬り倒し、なお、大庭景親の弟俣野五郎景久一騎討ちで組み伏せたものの、徒士兵らを斬って浴びた血糊のために差していた太刀が鞘から抜けなくなり、この間に加勢して来た大庭勢に討ち取られました。

主人の討ち死にを目の当たりにした家臣の文三家安は、敵陣に斬り込み、8人を道連れに壮絶な討ち死にを遂げました。

頼朝は、義忠主従の奮戦する隙に土肥実平らに守られながら箱根山中に逃れ落ち延びました。

箱根外輪山の山中は複雑な地形で、所領に近い土肥実平が熟知していることと、源氏に心を寄せる領民達が頼朝らを匿ったことが幸いして西の真鶴まで逃れることが出来ました。


佐奈田霊社本殿
組み伏せながら敵の加勢に囲まれた与一は痰が絡んで助けを呼べなかったことから、佐奈田霊社は痰、咳、喘息といった病に御利益がある社として祀られています。






文三堂

与一塚





「吾妻鏡」によると、建久元年(1190年)に頼朝が伊豆山権現へ参詣の折に、この地を訪れ、
佐奈田与一義忠と文三家安の墓を訪れ、不利な戦場で奮戦して討ち死にした主従のために落涙したと記されているので、義忠主従の戦死後、
まもなく墓が築かれたそうです。

その後、佐奈田与一義忠は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。



5に続きます。




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