平家終焉の地 平宗盛公胴塚
滋賀県野洲市大篠原
1185年、元暦2年3月24日
源平が雌雄を決した戦い〜壇ノ浦の戦いにより、敗れた平家は清盛以来の多くの一門を失ないましたが、嫡男の宗盛と子の清宗は海に沈むことも出来ず、漂い泳いでいる処を源氏武者に引き揚げられ、源氏の虜囚の身となりました。
武者鑑〜〜内大臣宗盛
(一名人相合 南伝二 著者〜歌川芳虎(一猛斎芳虎〜【武者鑑】)国立国会図書館データコレクションより引用)
幕末から明治の人相浮世絵師、歌川芳虎は自身の作、武者鑑に描いた平宗盛について…
内大臣宗盛
宗盛は、清盛の三男也り。実は、至って 下賤の者の子也り共ともいう。実(まこと)なるかな。
勇無く、智も無く、仁も無けれど、其の 相貌は 眉長く、眼大きく、鼻圓(まる)く、口耳共ともに大きく、額高く、極めて貴うとき高(好)運の相ありしが、常に独言ものいい、或いは、木きの葉はの散ちるを見みても 独りに微笑い、又は食せざるに 舌鼓を拍うつ。是これ 又極めて癡漢(あほう)の相さう也りしといけり。
然しかあらん。
平家惣大将の身みを以って死しを恐れ、忽(たちま)ち擒(虜〜とりこ)となりて、臆病の名なを後世流すこと、口惜しきことならずや。嗚呼、重盛の舎弟に此の人ありとは…。
と散々に罵る様に作品〜内大臣宗盛の絵に書き連ねています。
また、一門の栄華を極めた平清盛が身罷った2日後に宗盛は、法住寺殿の後白河法皇に、政権返上の奏上を行います。
父、清盛が自身の生涯を賭けて謀略と奇策を駆使して朝廷貴族、強いては白河院以来、堀川、鳥羽、崇徳、さらには院政の頂(いただき)に君臨していた後白河法皇と渡り合って築いた政権をいとも簡単に返上してしまいました。
清盛と散々駆け引きし合ってきた謀略家でもあった後白河法皇には、宗盛の扱いなど、赤子同然だったのでしょうか。
2に続きます。