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日本歴史紀行

歴史紀行 79 ‐ 12 安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)



安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮


壇ノ浦の戦い 1185年 寿永4年3月24日



1184年 寿永3年2月に一ノ谷の戦いで本拠地の福原(現在の神戸市)、翌年2月には安徳天皇の内裏を含め、四国の屋島(現在の香川県高松市)に移した本拠地を源義経の軍勢に襲われ、海上に追われた平家軍は、平清盛の四男、知盛が守る長門国の彦島(現在の山口県下関市)を目指しました。



というよりも、一ノ谷を追われて以降、本拠地として勢力回復を計った屋島を追われた時点で時勢は源氏にありました。

源範頼は幾度も兵糧の危機に悩まされながらも持ちこたえ、軍勢を周防(すおうの)国(山口県東部)から二手に分けて一隊を海路、九州の豊後国、国府(大分県)に上陸して九州で味方を増やしながら筑前国の最東端、門司を目指し、本隊は、九州源範頼が率いた軍勢が本州最西端の下関、壇ノ浦を目指しました。



これまで平家に付き従ってきた水軍勢力も屋島の戦いの結果、次々と源氏に付き従う様となり、源義経は摂津から率いた渡辺水軍に加え、熊野別当湛増の熊野水軍、四国、伊予の河野水軍、さらに平家、最後の本拠地、長門に近い周防からも串崎水軍が寝返り、船団勢力は800艘にもなり、平家の船団勢力を数で上回りました。



源義経による破竹の連勝による勢い、源頼朝の戦後の恩賞を約した政治力、平家を包囲する様に率いられた源範頼の源氏の軍勢に対して、平家が頼みとするのは清盛以来の強みを誇ってきた水軍勢力による局面打開でした。



寿永4年3月24日午前…

瀬戸内海を西に彦島を目指した義経が率いた源氏水軍勢力は壇ノ浦の東の周防灘で平家水軍と激突します。

 

平家水軍は三つの軍勢を編成し、先陣に地元、筑前の山鹿水軍、第二陣に唐津の松浦水軍、そして第三陣に平知盛が率いた平家水軍本隊が彦島を発ちました。

 

本州と九州を挟む海峡の早鞆瀬戸(はやとものせと)〜現在の関門海峡の東に出て源氏を迎え撃った平家水軍が東へ流れる潮の流れを巧みに利用して弓矢を投擲した戦術で有利に進めます。



序盤は平家水軍が源氏水軍を圧倒的有利に進めます。

ほぼ中央集団で進む源氏水軍を先頭を狙って弓矢で集中投擲する平家水軍に義経率いる源氏水軍は中々平家水軍に近づくことも難しい劣勢を強いられます。



午後、未の刻(午後2時)〜平家を有利に導いてきた西から東への潮の流れが周防灘から西への流れに変わります。



源氏水軍は追い風を生かして反撃に転じます。

義経は海戦において禁じ手とされていた舵取りや非戦闘の水夫らに狙いを定める弓矢投擲攻撃を命じます。



味方も狼狽する戦術に義経は動じず、攻撃続行を命じ、潮流の変化も相まって平家方の船団と武将は次々と源氏に敗れます。





その中にあって、平家随一の強弓と恐れられた猛将、平教経(のりつね)が大将 源義経を追うも、義経は後に語り継がれる【八艘飛び】で教経から逃れます。



義経を追う間にも、弓矢で雑兵を射殺し、太刀で次々と斬り伏せる様を見た総大将の平知盛は、罪作りなことよ。と嘆きます。



逃げ切る義経に加えて敗戦を悟った教経は、恩賞目当てに生け捕りを狙って組み伏せにきた源氏方の安芸太郎、次郎兄弟を両脇に抱え込むと、〜【 冥土への土産だ、供をせよ!】〜と叫んで海中に沈みました。



平教経、資盛、有盛、行盛、と一門が次々と沈み逝く様を見届けた知盛は、安徳帝の御座船へ赴くと、船上を掃き清め始めます。


壇ノ浦の戦い 1185年 寿永4年3月24日



1184年 寿永3年2月に一ノ谷の戦いで本拠地の福原(現在の神戸市)、翌年2月には安徳天皇の内裏を含め、四国の屋島(現在の香川県高松市)に移した本拠地を源義経の軍勢に襲われ、海上に追われた平家軍は、平清盛の四男、知盛が守る長門国の彦島(現在の山口県下関市)を目指しました。


というよりも、一ノ谷を追われて以降、木曽義仲を破り、京への帰還を考えた矢先、挙兵より3年あまり、鎌倉を動かなかった頼朝がついに軍を上洛させたことで帰還も叶わなくなり、なおも内裏を築き、本拠地として勢力回復を計った屋島を追われた時点で時勢は源氏にありました。


源範頼は幾度も兵糧の危機に悩まされながらも持ちこたえ、軍勢を周防(すおうの)国(山口県東部)から二手に分けて一隊を海路、九州の豊後国、国府(大分県)に上陸して九州で味方を増やしながら筑前国の最東端、門司を目指し、本隊は、九州源範頼が率いた軍勢が本州最西端の下関、壇ノ浦を目指しました。



これまで平家に付き従ってきた水軍勢力も屋島の戦いの結果、次々と源氏に付き従う様となり、源義経は摂津から率い



平教経、資盛、有盛、行盛、と一門が次々と沈み逝く様を見届けた知盛は、御座船へ赴くと、船上を掃き清め始めます。



〜【珍しき東男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ〜間もなく珍しい東国武者が現れるでしょう。】と侍女らの戦況の問いに知盛は応え、一門の命運が尽きようとしていることを示しました。



最期を悟った一門を束ねる二位の尼(清盛の妻)は安徳天皇を抱き(吾妻鏡では女官、按察局〜あぜちのつぼね)、



〜今ぞ知る みもすそ川の御なかれ 波の下にも 都なり〜



と辞世の句を残し、海中に沈みました。

この際、三種の神器を携えていたといいます。





【見るべき程の事は見つ】

と言い、平家一門、母〜二位の尼、そして母に抱かれた安徳帝が三種の神器と共に海中に沈み逝く様を見届けた知盛は、舟の碇を身体に巻き付け、海中に自ら身を投じて殉じました。



嫡男である清盛三男の宗盛も海中に身を投げましたが、生来の泳ぎの得意からか死にきれずにあったところを源氏方に捕らえられます。



ここに1180年 治承4年8月より始まった源平合戦の決着がつきました。






戦いの終わった関門海峡に、おびただしい死体が漂う中、安徳帝の御遺骸は引き揚げられ、仮の御旅所に築かれた塚に埋められた後に現在の赤間神宮に隣接する阿彌陀寺御陵に埋葬されました。







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