腰越状
文を認(したた)める弁慶と見守る義経の像
神奈川県鎌倉市腰越 満福寺
源義経が兄、頼朝と共に父の仇敵である平家を壇ノ浦で滅ぼし、なお、鎌倉凱旋の手土産として平家嫡男〜平宗盛を生け捕りにして鎌倉近くまで連れ戻ったのは、壇ノ浦の戦いからひと月あまりが過ぎた1185年、元暦二年5月24日のことでした。
義経主従が平宗盛 父子を連行し、いよいよ鎌倉という目前で、西の玄関口である腰越の地で足止めをくらいます。
使者が訪れ、平宗盛 父子を早々に鎌倉へと護送していったものの、義経には頼朝から鎌倉入りの許しが出ないため、満福寺で逗留を余儀なくされます。
自身に対する頼朝からの疑念が尋常ではないと悟った時、義経は無二の郎党である武蔵坊弁慶に頼朝へ取り次ぎを求める一通の文を、頼朝の腹心ともいえる吏僚、大江広元に宛てて書かせます。
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腰越状 写文