
元亀4年4月12日(1573年5月13日)
戦国大名最強と謳われた武田信玄がこの日亡くなりました。

疾如風徐如林侵 掠如火不動如山
孫子の旗に記された言葉。
疾(はや)きこと 風の如く
静かなること 林の如く
侵掠すること 火の如く
動かざること 山の如し
風林火山の一節として有名な一文ですが、これは武田信玄公が孫子の兵法を崇敬していたことから、恵林寺の住職、快川紹喜に書かせたものと伝えられています。
風林火山の一節は、孫子の兵法~軍争編に戦争は外交によって回避すべきと明記されているものの、戦争になったら、どのような策をもって勝利をもたらすかという意味合いで風、林、火、山の4つの言葉により表したと思られます。
武田信玄公の領国 甲斐国は、東は大菩薩峰を経て関東の雄 相模 北条氏。
北は広大な信濃に諏訪、小笠原、村上、真田といった数多くの豪族、そしてその先に越後 上杉氏。
南には霊峰 富士の先に駿河の名族 今川氏。
西を望むと北岳、間ノ岳、甲斐駒ヶ岳をはじめとした3000メートル級の南アルプスの天険の連峰と、四方を囲まれた一瞬足りとも油断のならない甲斐盆地に 1521年 大永元年11月3日、甲斐国の守護、武田信虎に嫡男が戦火の最中(さなか)に誕生します。
天下目前にした信長が避け、家康が畏れながらも尊崇した戦国最強の軍勢を率いたのが武田信玄です。
父、信虎を追放して武田家の当主となり、西の北条、南の今川とは三国同盟で不可侵条約を結び。様々な謀略を駆使して北の信濃を平定した後は越後の上杉謙信と五度の川中島の戦いを繰り広げました。
上洛途上の元亀4年4月12日(1573年5月13日)、三河、長篠城在陣中に病が悪化して甲斐への帰路、信濃 駒場の阿智村にて還らぬ人となりました。