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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1610年 12月3日(慶長15年10月18日) 戦国武将 本多平八郎忠勝 逝去 




1610年 12月3日(慶長15年10月18日)
戦国最強の徳川家臣 本多平八郎忠勝、逝去
初代 桑名藩主



本多平八郎忠勝 像 (愛知県岡崎市 岡崎公園)





戦国最強の武将の呼び声もあり、大小57回の戦に出陣し、かすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝。


負け知らずの武勇で戦場を駆け、徳川家康の天下取りに大きく貢献した本多平八郎忠勝は、松平譜代の家臣、本多忠高の子として 1548年 天文17年に岡崎の北に位置する西蔵前城で生まれました。




徳川家康(当時~松平元康)が烏帽子親となって13歳で元服した忠勝は、今川氏の人質だった徳川家康が出陣した桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城の救援で初陣を飾ります。



この戦いの後、今川義元が織田信長に敗れて戦死すると、家康は義元の弔いに動かない今川の後継者、氏真を見限り、故郷の岡崎で独立に動き出します。


さらに敵国だった尾張の織田信長と同盟を結ぶため、忠勝は清洲へと向かう家康の供を果たします。


この時 結んだ家康と信長の同盟は、信長が本能寺で倒れるまで守られ続けました。


1563年 永禄6年、三河一向一揆が勃発すると、忠勝は、本多家が代々一向宗徒だったことから、母に浄土宗への改宗を懇願し、これ以降、本多家は浄土宗門徒となりました。


家康の懸念を払拭した忠勝は常に家康の側にあり、一揆勢を散々蹴散らし、本多の長槍と恐れられました。


その後、一向一揆を鎮めた家康は、三河平定を進め、遠江へ進路をとります。

掛川城に籠る今川氏真に和議を説き、かつての太守、今川家を滅ぼすことを善しとしなかった家康は、氏真 正妻の実家である小田原 北条家へ送り届け、大井川以西の遠江一円を支配するに至りました。


大井川以西を領すると、盟約を結んだ甲斐の武田信玄と直接 領域を境にする様になり、次第に衝突が増え、ついに 盟約の破棄、武田信玄との戦いが本格的に始まります。




一言坂の戦跡 碑
静岡県磐田市一言





1572年 元亀3年 10月、遠江に狙いを定めた武田信玄は、信濃 伊奈口から青崩峠を越えて侵攻し始めました。

徳川家康は、破竹の勢いで侵攻する武田軍を偵察すべく、本多忠勝、内藤信成を派遣、三ケ野の磐田原台地より下りますが、武田軍の進攻は大軍ながら予想以上に早く、本多忠勝は内藤信成隊と徳川本隊を浜松まで逃がすため、殿(しんがり)を務めます。





現在の一言坂古戦場

磐田原で火を放ち、目眩ましをしながら退き、徳川本隊を退却させた本多忠勝は、少数の隊で天竜川東岸の一言坂で武田軍と激突します。

死兵と化して戦う本多忠勝に武田信玄の近侍、小杉左近は忠勝に退路を開け、退却を促します。

忠勝と左近は互いに名乗り合い、退却しました。

翌日、一言坂には、小杉左近が残した狂歌の落書が立てられました。

落書には、~家康には過ぎたものが二つあり、唐の頭に本多平八~

とありました。

敵にさえ讚美される武将となった本多忠勝。

この時 25歳、三方原の戦い、長篠戦い、武田討伐、伊賀越え、小牧 長久手の戦い、北条討伐、関ヶ原と徳川軍の重要な戦いには常に忠勝の姿がありました。

関ヶ原の戦いから10年、1610年12月3日( 慶長15年10月18日)、戦いに明け暮れた平八郎は関ヶ原の戦いの恩賞と、西国に配した豊臣系大名への睨みを効かせる要衝となる伊勢、桑名10万石の大名として配置され、桑名で63年の生涯を終えました。






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