


今井信郎 像、今井信郎碑〜今井信郎 屋敷跡
静岡県島田市阪本
今夜は八十八夜
新茶摘みにちなみ、茶に関わる歴史について書いています。
1867年 慶応3年、11月15日、京都河原町の醤油商 近江屋の二階で幕末の風雲児、坂本龍馬が土佐の同輩〜陸援隊を率いる中岡慎太郎とともに刺客に襲われ還らぬ人となりました。
通説によると、龍馬に手をかけたのは、幕府の京都見廻組の組頭、佐々木唯三郎 を筆頭にした七名でした。
時代が明治を迎え、龍馬暗殺の実行犯として逮捕されたのは今井信郎でした。
今井は見廻組、組頭 佐々木唯三郎の指揮下で龍馬捕縛へと捜索、龍馬が醤油商 近江屋に潜んでいると情報を得て急行、二階に踏み込み、在室していた中岡慎太郎共々殺害に至りました。
龍馬暗殺直後は、実行犯は新選組だとされ、西南の役で西郷隆盛と戦った谷干城も暗殺犯の捜索を執拗に追い、明治維新後もその説が支持されていました。
今井は、龍馬暗殺以降 鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争の最後、箱館戦争まで転戦、幕府に殉じる意志で戦いぬきました。
1872年 明治5年、
旧幕臣 中條金之助景昭が開墾方頭として茶園を開拓する谷口原の一角にある色尾と呼ばれる急峻な三方を崖に囲まれた一見、谷底の様な離れの地に、旧幕臣が忽然と現れて移り住みました。
敗軍となった幕府に、最後の箱館戦争まで付き従い生き残った眼光鋭いその幕臣は、台地の開拓を主導する中條金之助景昭の問いに、元京都見廻組の今井信郎と名乗りました。

今井は、京都見廻組の元隊士で、1867年 慶応3年11月15日に坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺した首謀者として知られた人物でした。
明治2年 5月18日、箱館戦争は総帥 榎本武揚が新政府軍に降伏し終結、幕府軍兵士に武装解除を命じました。
今井は降伏後 収監され、江戸に護送されます。
そして明治政府 刑部省に引き渡され、坂本龍馬殺害について取り調べを受けます。
今井は、供述によると、慶応3年11月15日、見廻組頭の佐々木唯三郎に従い近江屋に急行、佐々木の命で一階で見張りをしていたと主張しました。
結果、今井に下された判決文は、~見廻組与頭 佐々木唯三郎指図の下、坂本龍馬捕縛に際し、手を下さずとも事件に関係し、その後 脱走し、官軍にしばしば抗戦いたす。よって禁固申し付ける~とされ、禁固刑の処分を言い渡しました。
ただ、この判決は公にされず、その裏で明治維新実現の功労者である坂本龍馬殺害という大罪に関与した今井の助命嘆願をしたのは、西郷隆盛でした。
西郷がなぜ今井の助命に関わったのかは、この記事では触れませんが、結果、今井は禁固刑で静岡藩に引き渡しとなり、徳川慶喜の蟄居する浮月楼に入りました。
今井は明治5年正月まで名ばかりの禁固刑を浮月楼で過ごし、明治5年正月6日付けで赦免され、自由の身となりました。
そして旧幕臣が開拓に入っている牧之原に入りました。
坂本龍馬暗殺という明治維新実現の功労者を殺害したという大罪でありながら、明治新政府の参議として重職にあった西郷隆盛の嘆願により、禁固2年という極めて軽い処分に処された今井信郎は、明治5年正月に恩赦で自由の身となりました。
今井は、生活の糧を得るべく、他の旧幕臣がそうした様に牧之原へ移住します。
ただ、今井が終の棲家として選んだ場所は、中條金之助景昭らが開墾している谷口原の南端の谷合いの小豆沢と呼ばれる集落の外れで、建てた家も特殊な造りでした。
部屋の一つは、縁の下から家の西側を流れる川岸にも逃れられる抜け穴のあるもので、抜け穴はトンネルとなって屋敷の裏の崖に繋がり、非常の際はここから逃げ出せる造りで、今井は刺客をたえず警戒していました。
そんな今井ですが、牧之原移住後の人生は、幕末に戦いに明け暮れた日々とは、あまりに違うものでした。
勝 海舟の体験談を記した(海舟座談)にこの様な逸話が残ります。
私の知人に今井信郎という人がおる。
維新の当時は血気盛んな青年であった。
剣術の達人で、京都や北越に転戦して屡々(しばしば)偉勲を奏した、極めて熱心な幕府の忠臣であった。
明治5~6年の頃、旗本や御家人が静岡の牧之原へ帰農して行き、今井もまたその中の一人だった。
維新の時に、久能山に奉祠した東照宮の木像と同様の木像が集まってきた。
一つは、上野の彰義隊が、敗軍の時に持って逃げて
来たもので、今一つは、江戸城内吹上の紅葉山にあったのを江戸城引渡しの時、幕臣が持って来たのである。
そこで、一ヶ所に祭って置くのも無益な話しであるから、其中の一体を分けて、帰農士族の村落に掘社
を建立しようという相談が始まって、今井が、その運動委員に撰ばれた。
今井は、第一に、東京に来って、まず、山岡鉄舟の許を訪ねて其相談をいたしました。
鉄舟は相談を受けると、それは至極結構な御話であるから、旧幕に縁故のある三井、渋沢などの実業界
の人間に談判するには、時の東京府知事を勤めている大久保一翁の添書を貰うがよかろう。
また、旧幕の旗本や士族の方面を説くには、勝海舟
の力を借りるがよかろうと、一々親切に方策を授けてくれた。
今井はすぐさま大久保を尋ねて、其事を頼み込みますと、大久保の返事は極めて冷淡であった。
大久保曰く、其は、東照宮様が定めし御迷惑でありましょう。
のみならず、私は御承知の通り、只今は東京府知事を致して居りまして、
日夜多忙を極めて居るから、
とても其のような御世話をする暇がありません。
この義はひらに御免を衆ります。
すると、
「今井は慣然として怒った。この大久保の老爺、自
分が官職に就いたものだから、徳川家の大恩を忘れてしまったのである。此の恩知らずめが!」と吐き捨
て、何を頼むものかと突然席を蹴り立て、ろくに挨拶もせずに出て行った。
そこで、今度は俺(勝 海舟)の家を今井が訪ねてきた。
勝。「ウン、何にかえ、その木像は作がよっぽど善いかえ?。」
今井~「いいえ。作が別段宜しいと云う訳ではありませんが、紅葉山の御代に祭ってあった、噂とい御
像でありまして、何様歴代の御恩を蒙りました東照宮様の御神像で御座いますから、其の御一体を分け
て、私共の郷社に祭りたいと云ふのであります。
勝~「うん そうか、そうして其れを祭つると何にかに成るのかえ。」
今井~「イヤ、何にかに成るかではありません。東照宮様の御恩に報い奉る、一心でやるのであります。」
勝~「ソンナ事ならおれは真平ら御免だョ。」
今井は火の如く憤って、「この腰抜けめが、貴様も、大久保同様、政府の役人になって、徳川の大恩
を忘れくさったコンナ奴等には頼まネェ!」と言う
と、見幕で憤然として立ち去った。
憤慨の余り、今井は、熱心に運動して、漸くの事で、旧士族のなけなしの金を絞って、千円の寄付金
集め、谷口原に村社を建てることが出来た。(以上
海舟座談)
勝海舟の断りに憤激した今井ですが、この事が好を奏したのか、谷口原近くに牧之原東照宮が創建されたのが明治8年のことでした。

牧之原東照宮跡
旧幕臣、今井信郎は、牧之原で第二の人生を歩み、開拓の傍ら、東照宮の創建。キリスト教への入信。さらには、初倉村村長に就任と現在も存在する榛原高等学校の初代校長と、町の発展に貢献しました。
大正時代に脳梗塞で倒れ、闘病の末に生涯を閉じるにあたり、坂本龍馬殺害について、家族とごく一部の人に真実を語っていたそうです。
今井信郎、坂本龍馬殺害を記述。
明治35年5月、
今井の友人であった新選組の結城無二三の息子で、「甲斐新聞」主筆の結城礼一郎が、父の書き残した
文と、聞いた話をもととして甲斐新聞に今井信郎が坂本龍馬と中岡慎太郎殺害に関与したことを語っていたと掲載したもので、新聞記事のために、誇張さ
れた感は否めないが、そのまま掲載されてしまったのである。
今井はこれに対して何らの弁明もしなかったが、明治42年12月17日に「大阪新報」記者の和田天華子に対して次のように書いて送っている。
1、暗殺 にあらず、幕命によって職務上捕縛に向かったところ、格闘したの殺でした。
2、新選組とは関係がない。
3、彼は伏見にて同心二名を銃殺したので、その逮捕のため向かったものである。
4、場所は京都蛸薬師角近江屋という醤油屋の二階である。
今井信郎の妻、いわ の口伝より
また、今井信郎の妻いわの口伝によると、事件の起こった11月15日朝、桑名藩の渡辺某とする侍が
今出川千本の今井の仮寓を訪れ、二人でしばらく奥で話しあっていたが、今井はちょっと出てくるといって家を出ていった。
その日は京の寒さがひとしお身にしみる日で、水雨しぐれが降っており、今井は竹ノ子笠にみのという雨装束で朱鞘の大刀を引きずる様ににぶちこんでいった。このとき妻のいわはてっきり斬り込みだと直感したという。
「それから三日目の慶応3年 11月18日になり、
今井は無事にぶらりと帰ってきた。しかし、右手を
懐に入れている。
家に入ると そのまま奥に入って一人でごそごそやっているので不審に思って後からのぞくと、
右の人差指はパックリと開いていて、その傷の手当をやっていた。「どうなさった」と聞くと【うるさい!】と一喝しただけだったが、その後一カ月もたったのちに、「お前はこれから江戸へ帰れ。」とい
うとともに【この刀を榊原先生 (今井の剣道師範)にお目にかけてくれ、これで板本龍馬と中岡慎太郎を斬った。
守護職からの褒賞もここにある】と突然うちあけたという。
いわが、京を後にして間も無く、薩長と幕府が鳥羽伏見で激突し、街は戦火に焼かれる。
第二に、明治三年の裁判にかけられた刑部省ならびに兵部日書の写(全文ではない)名一通。
私的なものは明治24年、今井真偽説の沸騰のさなかに、今井自身が答えた四項目の自白である。
このうち、口書の方では、竜馬、慎太郎両名討ち取りの現場にはいたが、見張りと捕縛が目的で、
直接手を下していないとのべているのに、回答書では、太刀を取ろうとしたので、自分が下した。
と、殺害したとしか考えられない言い方をしている。
第三に、結城無二三とその長男礼一郎に語ったものは、礼一郎の新聞記者としての誇張があるにせよ、
ともかく今井自身が斬ったという前提で話していたものと考えられる。
「第四に,今井信郎の長男の家族は、大正期における人として知られていたが、
両親に初めてあったとき、当時話題の近江屋事件のことを尋ねた際には、今井は聞き取り難い武士訛り
であったというが、「そこでさっ討ちとった」とい
う。
こ間違いなく手にかけたようないい方をしていたようである。
今井信郎がきわめて控え目にいっていることが真実なのではないかと思っている。
参考著書【坂本龍馬を斬った男、幕臣 今井信郎】
著者 今井健彦 氏
坂本龍馬殺害に関わった今井信郎。
坂本龍馬とは師弟の間柄の勝海舟。
維新の後に勝海舟と激論を交わしていた今井信郎。
歴史の巡り合わせとは面白いものです。