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日本歴史紀行

歴史紀行 リバイバル 12 ビルマゆかりの碑


浜名湖 静岡県浜松市


浜名湖

ビルマゆかりの碑


静岡県浜松西区舘山寺町 大草山



国連常任理事国ロシアによるウクライナ侵略戦争。

10月に発生したパレスチナ武装勢力ハマスによるイスラエルへのテロ行為を発端としたイスラエル軍のガザ市への報復攻撃。


世界は主に2つの戦乱が注目されていますが、秋以降に東南アジアのミャンマーの情勢が、なんとも きな臭くなってきています。


かつて、長い期間、監禁状態にあったミャンマー民主化のシンボル〜アウンサンスーチー氏が軍政を解散した軍と微妙な関係を保ちなからも国政に参加し、緩やかながらも民主化の流れが進み、安定し始めた国内に成長を期待した海外企業が進出する動きを見せた矢先…。

2021年2月1日、ミャンマー(旧ビルマ)においてクーデターが発生しました。


アウンサン・スーチー氏ら、民主派の国会議員らも拘束され、再び軟禁状態となりました。


軍が武力を持って民主派国会議員を拘束して軍政を担ってきましたが、今年の夏以降は各地に潜伏した武装勢力が軍に対して武装蜂起、この動きに軍が次々と敗れる事態となっています。


もしかしたら、ふたたび軍政が倒れ、ミャンマーに民主化が訪れるかも知れません。


ここで、
日本とミャンマーの絆を伝える石碑を紹介します。





浜松、舘山寺温泉に近い大草山で、日本とビルマ 【現、ミャンマー連邦共和国】の絆を表した石碑がありました。


長年 軍事政権下で自宅軟禁され、その監視下にありながらも民衆に絶大な支持を得ていたアウンサン・スーチー氏は、度々 日本でもニュースで取り上げられ、ご存知の人も多いでしょう。


アウンサン スーチー氏は、自宅軟禁前に二度、浜松に父の足跡を訪ねたこともあり、軟禁下にはノーベル平和賞を受賞するなど、軍事政権に屈することなく、武力に訴えることなく民主化を目指す姿勢が世界に評価されました。


現在のミャンマーは、軍事政権を解散させ、軍を掌握していたテイン セイン氏が政党政治体制に移行する中で互いに国のために協力し合うことでアウンサンスーチー氏と和解し、14年以上の自宅軟禁を解除されて国家顧問となり、政治の表舞台に復帰しました。

国内も平穏になり、海外からの投資も増えた矢先での軍事クーデターでした。



そのアウンサンスーチー氏の父で、当時 イギリスの植民地からの脱却を計る独立運動家「ビルマ(ミャンマーの旧名)建国の父」としても知られるアウンサン将軍(オンサン将軍)が1940年 昭和15年、数ヶ月浜松に滞在していたそうです。






浜松 かんざんじ温泉の大草山には、遊園地の浜名湖パルパル前から浜名湖を湖上から大草山山頂を結ぶ舘山寺ロープウェイが便利です。










浜松とビルマ【現、ミャンマー連邦共和国】の繋がりを伝える「ビルマゆかりの碑」

二つ並んで建つ碑が舘山寺ロープウェイ大草山駅横に並んでます。

この石碑は、ビルマで戦った軍人、軍関係者によって、いまから40年以上前の1974年 昭和49年に建立されました。








ビルマの碑 右側

≪碑文≫

この碑はビルマ国民に建国の父と仰がれるオンサン将軍が去る昭和十五年わが国に亡命して当地出身の鈴木敬司陸軍少将と共に祖国独立運動の秘策を練ったこのゆかりの地に建てられたものであります。

太平洋戦争間彼の苛酷なビルマ戦場で幾多春秋に富む若い身を祖国に捧げ散華された諸英霊は当静岡県出身者のみでも二千七百余柱に
及んでおります

今日のわが国の隆盛が一途に祖国の安泰と平和をこい願いつつ散華された尊い英霊の犠牲とそのご加護の賜である事は片時も忘れることができません

ここに同志相図り静岡県及び浜松市ならびに関係市町村当局の御協賛を得てビルマゆかりの碑を建設しビルマ方面で戦没された諸英霊をお慰めすると共にオンサン将軍の史実を長くここに留めビルマとの友好を期する次第であります

なお碑面のビルマ語は駐日ビルマ連邦大使ウチコーコー閣下の撰になり「ジャパンバマーチチエーテミエバセー」と発音し「日緬永遠の友好を!」の意味であります

昭和四十九年五月十二日
ビルマゆかりの碑建設委員会
会長 飯田祥二郎


碑文にあるように、アウンサン将軍との交流のみならず、太平洋戦争終結までにビルマで散華した静岡出身の英霊をお慰めする意味も込められています。



こちらの碑の上部の言葉は、【 ジャパンバマーチチエーテミエバセー 】と読み「日本とビルマの永遠の友好を」という意味です。







ビルマの碑 左側


≪碑文≫

ビルマ

そこは静岡県 二七〇〇余の 若者の みたま鎮まる

ところ それは ここ浜松を 起点として

輝かしい建国を 成し遂げた民族

ああ深い ゆかりのビルマ


静岡県県知事 竹山祐太郎




アウンサン将軍が亡命し、浜松にやって来た理由を語る上で、欠かせない人物が、浜松市出身の軍人、鈴木敬司陸軍大佐です。


鈴木大佐は1940年 昭和15年 南益世の偽名を使い、イギリスの植民地下にあったビルマ(現 ミャンマー連邦共和国)に潜入。

ビルマの独立工作を行う最中にアウンサン将軍と出会った鈴木大佐は、その後、独立派の勢力拡大を恐れる日本軍の命令に反し、アウンサン将軍をはじめとする独立運動家のビルマ人青年を日本でかくまったそうです。

その際、数ヶ月間、アウンサン将軍が滞在したのが、浜松市中区鴨江にある鈴木大佐の自宅や舘山寺や弁天島の旅館です。

軍の意向に背く行為だったので、密かに過ごされ、温泉にのんびり浸かる心境ではなかったことでしょう。

その後、アウンサン将軍は、中国の海南島にわたり、日本軍人と軍事訓練を共にした後、ビルマ独立義勇軍として共に戦い、大本営命令で鈴木大佐が帰国するまでの間、信頼関係を築いていったそうです。

わずか2年にも満たない鈴木大佐とアウンサン将軍との交流でしたが、戦後、戦犯としてビルマに連行された鈴木大佐(少将)を、アウンサン将軍は抗議により開放したり、ミャンマー独立に貢献したとして、戦後「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」という国家最高の栄誉を与えています。

アウンサン将軍は不幸にも太平洋戦争の後、母国の独立を見届けることなく暗殺されました。










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