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日本歴史紀行

歴史紀行 地域版 44 大鐘家住宅  〜静岡県〜




重要文化財 大鐘家住宅









母屋内の竈(かまど)

大鐘藤八郎貞綱



大鐘家住宅
静岡県牧之原市片浜


大鐘家の起こり
大鐘貞綱〜還俗、柴田勝家の与力になる。

大鐘家住宅は、戦国武将 大鐘貞綱が1597年 慶長2年、この地に移り住み、やがて貞綱の子孫の世代には、大庄屋となり、大鐘家としての住宅を建てました。

大鐘貞綱は、父、佐々木定政の時に近江国(現在の滋賀県)から織田信長の治める尾張国(現在の愛知県)に父、兄と共に移りました。

兄と共に高針山 蓮蔵院という寺院に仏門に入れられたものの、貞綱は馴染めなかったらしく、還俗して、山田蔵隣と名乗り、この土地出身の織田家の重臣、柴田勝家の与力となります。

織田信長の飛躍により、柴田勝家も筆頭家老の立場となり、越前(現在の福井県)へ転戦し、一向宗徒との戦いとなります。

蔵隣は越前一向宗徒との戦いで戦功を挙げ、大鐘の絵の陣羽織に信長の目にとまります。

【 これからは、大鐘を名乗るがよい。】

信長の一言により、蔵隣は大鐘藤八郎貞綱と名を変えました。



貞綱、武士の生き方を捨てる

織田信長の死後、柴田勝家は羽柴秀吉との跡目争いが激化し、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが勃発します。

越前丸岡城の家老となっていた貞綱も戦いに加わりますが、賤ヶ岳の戦いは、与力の頃から知っていた前田利家が柴田軍として布陣しながら秀吉勢に加わる等して劣勢になってしまいました。

なおも柴田勢に不運が訪れます。
お静という人柱まで用いて築城した丸岡城。
人の生き血を吸ってまで築城した柴田勝豊は主君、柴田勝家の甥でしたが、やがて勝家と不和となり、秀吉に加勢せよと勝豊に命じられます。

裏切り、戦いの勝ち負けは戦国の常とはいえ、
丸岡城家老を務めていた貞綱は、敵軍となって主君、柴田勝家と対峙することとなりました。

晩年に輿入れしてきた信長の妹、お市を妻に迎えていた勝家は、北の庄城を枕に一族郎党約80名と共に自刃して果てました。

秀吉の配下となった貞綱ですが、加藤清正と不和となるなど、秀吉政権下には馴染めず出奔、尾張に戻り、兄の居る蓮蔵院に白山権現を勧進するなどしますが、やがて遠州 相良の地に移ります。
 
遠州 相良、大磯村に落ち着いた貞綱はこの地で
波乱の生涯を閉じます。

貞綱の子孫は網元庄屋として土地の有力者となり、江戸時代の初期から中期にかけて旗本三千石の格式を持つ大庄屋となりました。


江戸時代の格式と当時の造りをよく残したことから1973年昭和48年に国の重要文化財に指定されました。

初夏の時期は、あじさい祭りが開催され、庭園を彩っています。




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