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日本歴史紀行

大河ドラマ どうする家康 紀行 1 国宝 久能山東照宮 4

廟門
廟所参道






廟所参道
廟門から廟所へ繋がる参道で、徳川家に仕えた武家により奉納された石燈籠が左右に並びます。









 


神廟

1616年 元和2年4月17日、徳川家康公が薨去した後、その夜のうちに遺骸が駿府城から運ばれ、埋葬されました。

遺骸は遺言により西へ向けて納められました。
久能山より西へは生まれ故郷の三河 岡崎、さらに西には京の都の方を向いてます。








金のなる木


金のなる木の由来について

あるとき、家康公が家来に~世の中には、金のなる木があると聞くが、誰か知っておるか。

しかし、誰も答えられず。

家康公は、「誰も知らないなら私が示そう」といい絵を描き始めました。

そして、木の幹を最初に書き、これに三つの枝を描いてこういいました。

一つ目の枝は「よろずほどよ木」・・・すべてほど良き
二つ目の枝は「しょうじ木」・・・正直
三つ目の枝は「じひぶか木」・・・慈悲深き

家康は、「どうじゃ、ほかにもあろう」と傍らの大名に尋ねました。すぐさま、そばに控えていた大名のひとり、当時一流の文化人といわれた細川忠興は、さらに左右に4本ずつ、8本の枝を書き加えました。そして、描いた枝には、こう書かれていました。

「あさお木」・・・朝起き(朝早く起きる)
「いさぎよ木」・・・潔き
「しんぼうつよ木」・・・辛抱強き
「ゆだんな木」・・・油断なき
「かせ木」・・・稼ぎ
「ついえな木」・・・潰えなき(疲弊し形を崩さない)
「養生よ木」・・・養生よき(病気にならないよう健康を保つ)
「かないむつまじ木」・・・家内むつまじき(家族が仲良くする)

最後にそれを見た家康は、「この木を守れば、富を得られ、末長く繁盛するであろう」といい、家臣に対し帰ったら家の者にも伝えるよう命じたそうです。





久能山東照宮

久能山は、有度山山頂の平坦部である日本平南端に位置します。


かつて推古朝時代に開山となり、平安時代に創建された久能寺がありました。


1568年 永禄11年、甲斐の武田信玄の駿河侵攻により久能寺は現在の清水に移転とされ、信玄は久能山城を築きます。


1582年 天正10年に武田氏が滅亡すると徳川氏の支配となり、1616年 元和2年 1月、病に伏した徳川家康はその命が長くないと悟り、遺言を残します。


1、葬儀は江戸 増上寺で行う。
1、位牌は三河 大樹寺に置く。
1、遺骸は久能山に西へ向けて納め、一年後、日光に小堂を建てよ。関八州の鎮守となる。

元和2年4月17日、駿府城で家康が75年の生涯を閉じると、遺骸はその夜のうちに久能山に運ばれました。

2代将軍 徳川秀忠は、直ちに廟所の造営に取り掛かり、弟の頼宣(後の御三家 紀伊 徳川家藩祖)を総奉行に命じ、幕府大工棟梁 中井大和守正清が手掛けました。

1617年 元和3年の暮れに拝殿から石の間から本殿へと繋がる権現造りと呼ばれる家康の霊廟である東照宮が創建となりました。

2代将軍 徳川秀忠 時代の神廟は木造桧皮葺の廟所でしたが、1640年 寛永17年、祖父 家康を深く崇敬する3代将軍 徳川家光の手により現在の高さ5・5メートル、幅8メートルの石造宝塔に作り替えられました。

江戸時代初期創建の総漆塗り、極彩色の壮麗な社殿は安土桃山時代の建築遺風を現代に残し、静岡県唯一の国宝として指定されました。



久能山東照宮から駿河湾を望む













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