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日本歴史紀行

大河ドラマ 〜どうする家康〜 紀行 18 松平竹千代 像


松平竹千代(徳川家康) 像(撮影2016年)



松平 竹千代 (徳川家康)像

静岡市葵区 静岡駅前


現在、放送中の大河ドラマ〜どうする家康〜
初回は、主に家康と正妻となる瀬名の出会い、恋、祝言、戦は1560年〜永禄3年5月19日、
桶狭間の戦い〜大高城兵糧入れ、今川義元の討ち死にが主に描かれました。







三英傑という呼び名があります。

この呼び名は、戦国時代後期に尾張、三河。現在の愛知県で生を受け、天下統一さらに泰平の世へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を指す呼び名で、明治時代には定着しました。



昨日の〜どうする家康〜は、織田信長の妹、お市様が、夫、浅井長政の裏切りを家康に知らせるべく、悩む姿を察した侍女 阿月が、十里〜約40キロ以上の道を走り、家康の陣へ危機を命がけで知らせるという世にいう〜信長の金ケ崎の退き口〜のきっかけをほぼ創作で描いたものでしたが、涙腺崩壊でした。


家康に長政の裏切りの可能性を言い出され、激怒する信長。

信長相手にブチ切れ、信長に〜あほたわけ〜の今やドラマの決めセリフみたいになっている言葉を吐いてしまった家康。

阿月の死、そして巻き込まれ気味に殿(しんがり)に決意を新たにする家康。

退却を決め、殿(しんがり)を信長に命じられ、殿(しんがり)に協力しないと、家康を半ば、浅井に寝返ったと言い触らすと脅迫してみせ狂気の片鱗を見せた秀吉。

三英傑の人間性がそれぞれ描かれました。





話が飛躍してしまいましたが、
この記事後半では、ドラマでは描かれ無かった初回以前の出来事〜家康の初陣について書いておきます。









徳川家康(幼名〜松平 竹千代)は、幼児期に母、於大が離縁されて引き離され、さらに父、松平広忠は駿河、今川氏への人質として竹千代を送るも、道中 家臣の裏切りにより敵国 尾張の織田氏に売り飛ばされるという二重の悲劇に遇い、約2年を織田氏の元で暮らします。

この間に竹千代の父で、三河の国守 松平広忠は刺客の手により命を落とし、今川は三河兵を先陣にたて、織田領となっていた安祥城を攻め、織田信長の兄にあたる信広を生け捕り、竹千代との交換を実現させます。

人質交換により、竹千代は織田の手から解放はされたものの、今川義元は竹千代が幼いことを理由に、後見人として身柄を預るとし、なおも三河の国は今川の手にありました。

1556年 弘治2年、15歳になった竹千代は元服の儀式を執り行い、烏帽子親は今川義元が自ら務め、竹千代への加冠を、娘を竹千代に託し、義父となった関口親長が月代を刈り理髪を済ませました。





三河 寺部城跡
愛知県豊田市寺部町

1558年 永禄元年、三河寺部城主 鈴木重教が反旗を翻して織田氏に味方したことに今川義元は激怒し、元信に初陣を兼ねて出陣を命じます。
桶狭間の戦いの2年前のことです。





寺部城跡














この初陣で元信は敵の後詰めを防ぐため、梅坪、伊保といった支城を一つ一つ、枝葉を刈る如く確実に落とし、最後に寺部城を夜襲で落城させました。

猛者揃いの三河衆を初陣の若武者が指揮しての大手柄に義元も喜ぶも、それでも三河の地を返すとは言いませんでした。






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