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日本歴史紀行

どうする家康 紀行 終(仮) 田中城


静岡市の玄関口〜静岡駅前の松平竹千代君像

2016年4月、この年の春にスペインのフェリペ国王が来日、静岡市の久能山東照宮も訪れています。


今夜、大河ドラマ【どうする家康】が最終回を迎えます。

刑事ドラマ〜相棒、外事警察。
弁護士ドラマ〜リーガルハイ。
映画〜ALWAYS 三丁目の夕陽。
  〜探偵はBARにいる。
  〜コンフィデンスマンJP。など…
こうした
エンタメ系ドラマ、映画で人気を博した古沢良太さんによる脚本ということで、一部のガチな史実史上主義の視聴者層、マスコミ等から誹謗中傷気味に酷評もされてきたものの、数々のヒット作品を世に出してきた古沢良太さんの描いた家康公は、斬新で思い入れの深いものになりました。



田中城本丸跡
静岡県藤枝市田中
慶長20年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康は、翌年の元和2年正月の鷹狩りを駿府城の西に位置する田中城付近で鷹狩りを楽しみました。






家康十男、頼宣(後の紀州徳川家祖)の領地ということもあり、大規模な鷹狩りでした。
1月21日、呉服商の茶屋四郎次郎が京で流行る天婦羅を朝食で家康公に振る舞いました。
大層美味だったのか、家康公は鯛の天婦羅をお代わりする程よく召し上がりました。



その夜、家康公は激しい腹痛を起こします。
鯛に当たったとも胃癌が悪化したとも言われてます。

その後、体調が小康状態となった処で家康公は駿府城に帰る決断をし、自らが死の床にあることを確信します。

葬儀は江戸、増上寺にて行うこと。
位牌は三河、大樹寺に納めること。
遺骸は駿河、久能山に西へ向けて納めること。
一年の後に日光に小さな堂を勧進せよ。
関八州の鎮守となろう。
との遺言を残しました。
1616年、元和2年4月17日、家康公の遺骸はその夜のうちに久能山に運ばれて納められました。

応仁の乱から大阪夏の陣まで149年、乱世の真っ只中に生まれた家康公は、戦国時代を終わらせた翌年に生涯を閉じ、泰平の世をもたらしました。







2016年4月17日、家康公逝去から400年の節目、ぼくは家康公の眠る久能山東照宮に参りました。

雨の激しい日でした。


家康公の命日に集まる徳川幕臣の子孫で構成される幕臣の会が集まってました。


当時の静岡市長夫妻も訪れていました。





幕臣の会による参拝行事の後、家康公の眠る神廟に参りました。
















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