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日本歴史紀行

大河ドラマ どうする家康 紀行 17 - 3 榊原康政 像


榊原康政像
愛知県岡崎市唐沢町 天下の道


勇猛な武将が多い徳川家中において、文武両道を兼ねた武将といえば榊原康政でしょう。


同期の本多平八郎忠勝は、僅かな手勢で甲斐武田や秀吉の大軍と渡り合う一騎当千の猛将ですが、康政は知略を活かした戦いで徳川の勝利を数々もたらしました。

徳川が織田信長の援軍として近江まで遠征した浅井、朝倉氏との姉川の戦いは、開戦序盤の劣勢を本多平八郎忠勝が単騎で敵陣に斬り込んだ場面で康政旗下の軍勢が敵陣の側面を突いて切り崩して勝利に貢献し、徳川最大の惨敗となった三方ヶ原の戦いでは、逃げ遅れた味方と深夜まで潜んで待ち、武田の軍勢が寝静まった所を襲撃して一矢を報いる功を挙げ、康政最大の功績は、家康が秀吉と局地戦ながら、唯一相まみえた小牧・長久手の戦いで、秀吉を弾劾する檄文を認(したた)めます。
檄文の内容は次の様な内容です。



〜羽柴秀吉は野人の子である。
 秀吉は もともと織田信長公の馬前の走卒に過
ぎず、信長公の寵愛を受けて将師に立てられる
と、その海より深き大恩を忘却して次男信孝公
を虐殺し、今度は信雄公に刃を向けるという大逆無道に対し、我が主君 源 家康は、織田信長公との旧交を思い、その信義を重んじて遺児、信雄公を助けんとして起こせり。
秀吉の悪逆非道を糾すべく、大義ある者は共に立ち上がるべし〜 



といった檄文を高札を主戦場となった尾張地域に広く立て、この内容に秀吉は大激怒し、康政を討ちとった者には10万石の恩賞をかけるという熱の入れようでした。

家康と秀吉が講和した後は、秀吉は康政の労を労い、家康の関東移封の際に、康政へ高禄を与える様に語りかけ、康政に入れ込みました。

関ヶ原の戦いで、徳川の大軍を託された家康三男の秀忠が軍勢を遅参させ、合戦当日に間に合わなかった際には、重臣として秀忠を遅参させてしまったと自らの非を示して家康と秀忠の間を取りなして和解させ、秀忠は生涯、康政への恩義を忘れず、康政が死の病の床につくと医師の派遣と見舞いの手紙を託して心配しました。











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