北海道小樽市花園町
小樽市役所の敷地は、かつて新選組の永倉新八が終の棲家とした杉村薬舗という薬局がありました。
明治維新後、永倉新八は松前藩医の杉村介庵の娘婿として帰参、小樽で余生を送ります。
以前は市役所正面の駐車場敷地内に永倉新八邸宅跡という看板がありましたが、今はなく、市役所より北の国道5号の地下歩道横に永倉新八が晩年に出会う山田音羽との対面の地を標す看板があるのみです。
~新選組~
幕末に将軍 徳川家茂 上洛の警護を司る浪士組の結成から始まった組織で、上洛後、壬生浪士組から新選組と変遷する過程で、近藤勇らが内部で対立する芹澤鴨ら一派を粛清して組織が一本化され、京都守護職を司る会津藩主 松平容保の下で京都治安維持を名目に不逞浪士の多くを討ち取りました。
~近藤勇~
新選組局長として京都の治安維持に奔走し、隊士と共に数多くの攘夷志士、倒幕の不逞浪士らを討ち取り、薩摩、長洲を中心とした倒幕を成した諸藩からは強い恨みを買い、江戸無血開城後に処刑されました。
~永倉新八~
松前藩脱藩の身で剣術修業中に江戸で近藤勇と知り合い、意気投合して浪士組に参加。池田屋事件では新選組二番隊を率いて斬り込み勇名を馳せました。やがて近藤と対立することが増え、勝沼の戦い後、袂を分かちました。維新後は松前藩医の婿養子となり杉村義衛と名乗り、北海道 小樽に渡り晩年を過ごしました。
永倉新八は、大正2年3月から小樽新聞に記者の聞き取りによる新選組顛末記の題名で連載記事を投稿します。
明治の世は、薩摩、長洲を中心に、外様藩の手により維新を成し、幕府親藩の会津藩主が務めた京都守護職の下で働いた新選組は、維新の志士を斬りまくった悪の殺人集団の如く扱われていた定説を覆し、現代で表す警察組織の新選組を再評価させる一助となりました。
永倉新八による新聞連載が始まって間もない大正2年5月22日、新選組 近藤 勇の娘で山田音羽と名乗る女性が永倉を訪ねました。
山田音羽は、近藤が新選組局長として京都で暴れ回っていた時期に愛妾に産ませた娘ということでした。
音羽は、女義太夫の竹本朝駒一座の演者~芸名 綱枝太夫~として北海道公演で札幌に来た際に、永倉が新聞連載で掲載した近藤 勇の写真の存在を知り、父の写真を見せてほしいと訪ねました。
永倉新八より小樽新聞に掲載された近藤勇の写真。有名な一枚ですね。
山田音羽
世が違えば、英雄の娘だったかも知れない山田音羽。
永倉が差し出した近藤の写真を涙ながらに模写して札幌公演の一座に戻りました。