見出し画像

日本歴史紀行

大河ドラマ どうする家康 紀行 15 駿府城 2


駿府城 坤(ひつじさる)櫓



駿府城

静岡県静岡市 葵区追手町 駿府城公園



関ヶ原の戦いで勝利し、抵抗する勢力を排除した徳川家康は、1603年 慶長8年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、武家の頂点となりましたが、将軍職をわずか2年で三男の秀忠に譲り、自身は人質時代を過ごした駿府に移りました。

1607年 慶長17年 2月、家康は大御所として駿府城の大修築に取り掛かり、全国の諸大名に普請を命じました。










普請が進んで半年足らず、この年の7月に家康は駿府城に入城しましたが、暮れの12月に普請中に火災が起き、本丸が焼失するトラブルも発生します。

翌年 3月に本丸御殿が完成し、本多正純、成瀬正成、板倉重昌らの譜代家臣に加え、天海、崇伝、林羅山の僧侶らといった面々が家康の周囲に集まり、二元政治の舞台となり、江戸の将軍家に影響力を与える政治勢力を作り上げました。


徳川家康公像 駿府城本丸跡




1611年 慶長16年、二条城で豊臣秀頼と会見して豊臣家の討伐を決意した家康は、方広寺大仏の開眼供養に着目し、梵鐘に記載される鐘銘に【国家安康】【君臣豊楽】の二句に家康の名を分断して呪詛し、豊臣を君として楽しむと難癖をつけて中止を命じ、豊臣方は大量の浪人を召し抱えて戦に備えます。

豊臣と大坂 冬、夏の陣で戦い滅ぼし、戦乱の根と後顧の憂いを絶った家康は翌年の1616年 元和2年に死の床につきます。

遺骸は久能山に納め、葬儀は増上寺、位牌は大樹寺に安置し、一周忌にて日光山に小堂を勧請せよと遺言を残しました。

1616年 元和2年4月17日 家康は75年の忍耐と激動の生涯を終えました。



家康公手植えミカン
家康公が大御所として終の棲家として駿府に移り住み、紀州浅野家より献上されたミカンを家康公自ら植えたものです。
収穫されたミカンは毎年、児童らに配られます。


三の丸石垣

二の丸堀
駿府城復元模型


3に続きます。







ランキング参加しています。応援お願い致します!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「どうする家康 紀行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事