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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 12 ‐ 5 ⑤ 東京都品川区 5


鈴ヶ森刑場跡
東京都品川区南大井2丁目




天一坊事件 ③


後に江戸幕府 8代将軍となる徳川吉宗(当時は紀伊徳川家の四男、新之助)が預けられていた家老、加納家の女中〜沢ノ井に手を出した挙げ句、懐妊させて沢ノ井は宿下がり(出産準備)すべく故郷の平沢村へと帰り、男児を生んだものの、産後の肥立ちが悪く、母子共に亡くなりました。


沢ノ井の母は、重大な事態に恐れたのか?紀伊藩主の徳川家にはおろか、家老の加納家にも届けることなく時を費やしてしまい、間もなく
吉宗(新之助)は江戸住まいとなり、家老の加納将監も新之助の世話をせねばならずに忙殺された中で月日が過ぎました。


やがて紀伊徳川家では、藩主となった吉宗(新之助)の長兄、次兄が相次いで病死する不幸に襲われ、吉宗(新之助)が紀伊徳川家の5代藩主に就きました。


加納家に養われる過程で鷹狩りや相撲に興じるなど、比較的、自由に成長した吉宗でしたが、質素倹約が身についていた吉宗は藩政においても質素倹約と綱紀粛正を徹底したことで藩の財政はみるみる内に好転して立て直すことに成功しました。


同じ頃…
江戸幕府の7代将軍〜徳川家継が肺炎を悪化させて僅か7歳で逝去してしまい、初代 徳川家康から将軍家を継いだ徳川秀忠 直系の系譜が絶たれたことで、家康生前の次期将軍継承策である御三家からの将軍擁立が初めて成されることとなり、5代将軍 綱吉から加増されるなど、目をかけられていた吉宗の存在が御三家筆頭の尾張徳川家を差し置いて高くなり、さらに水戸徳川家の徳川綱條と前将軍生母の月光院も吉宗を推したことが決定打となり、吉宗が8代将軍となりました。


吉宗は、紀伊藩を立て直した時と同じ様に質素倹約と様々な改革に着手し、貧困層のための無料医療施設、【小石川療養所】の創設。町火消しの【いろは四十七組】〜これは、時代劇〜暴れん坊将軍で吉宗が劇中でよく(め組の辰五郎)との交流で描かれてましたね…。さらに贅美を基本とした大奥にも、工夫を凝らした手法で改革を断行します。

大奥の評判の美女、約50名をより集め、側室選びと称して実家へ帰し、やがて落ち着いたところで他家へ嫁として嫁がせるというもので、いきなり倹約を持ち出せば、大奥中から批判と抵抗されることを見越していて、大奥評判の美女ならば、輿入れも出来ようとの吉宗と家老の知恵でした。

極めつけは、庶民の生の声を聞こうと、不満や訴えたいことを投書できる【目安箱】の制度です。
目安箱は基本、誰でも投書出来る仕組みで、箱の鍵は吉宗が管理することで、通常では知り得られない庶民からの情報を得ることも出来ました。

小石川療養所も、町火消し制度も、町民の暮らしに根ざしたもので、投書からの意見と、吉宗が家老の邸宅で暮らした御殿様以外の生活を体験してきた経緯から実現したもので、これらは【享保の改革】として、吉宗が幕府中興の祖と讃えられる要因にもなりました。

吉宗の治世が10年を迎えた1726年(享保11年)

将軍〜徳川吉宗の御落胤を称する一行が品川宿に入りました。

天一坊とその一味です。



天一坊事件④に続きます。





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