青い、そらのカケラ

私の大切な毎日。

どうしろと、いうんですか。

2008-04-23 02:13:19 | 思うこと。
私の母親が、電話口で怒鳴っていました。
泣いていました。

テンくんを連れて出かけることが、心配で仕方ないそうです。

そんなに無理をさせたいのか。
おまえたちはテンくんのことをなんにも考えていない。
ずっとベビーシートにくくりつけておいて、何も思わないのか。

電話ごしに降ってくる言葉は、矢のようでした。

テンくんをベビーシートにくくりつけておいて、なんて、そんな悲しいことを言わないでください。くくりつけるなんて、そんなひどい状況ではないと思っています。多くの赤ちゃんは抱っこ紐やスリング、ベビーカーなどに乗っているでしょう。テンくんが乗っているのも、ベビーカーにもなるベビーシートです。子供のことを考えて作ってあるものです。子供のことを考えて作ってあるものなのだから、そんなふうに「くくりつける」「しばりつける」なんていう発想には、結びつかないものだと思っています。私たちだって、抱けるなら抱いていたいよ。だけどできないから、できないから、できることを考えてそういう手段を選んだのです。これが一番、テンくんにも私たちにもベストだと、考えたから。これが一番、いいと思ったのです。だからそんなふうに、自由を奪っていると、束縛していると、そんなふうに思わないでください。

骨折するかもしれないだろ。
そんなに無理に連れて歩きたいのか。
自分たちが楽しければそれでいいのか。
そもそもそんな小さい子を連れて、お台場やイクスピアリに行くバカがいるか。
おとなしく家で寝かせとけ。

骨折するかもしれないというのは、いつだって付きまとう不安です。それはその通りです。だけど、それを怖がっていたら何もできません。もちろん私たちは、折れるかもしれないと思うことは、やりません。テンくんに痛い思いをさせたいわけじゃない。あたりまえでしょう。あたりまえでしょう?どこに、かわいい我が子に痛い思いをさせようとする親がいますか。私たちはテンくんの安全を一番に考えています。だけどね、折れるかも、折れるかも、と思っていたら何もできません。自分で動くようになってきたし、足や手をバンバン動かすし、寝返りだって頑張っている。それを止めることはできないのです。それはテンくんのためにはならないから。そして外にだって出なければ、心も育っていかないのです。ただ家で、そっと寝かせておくなんてこと、かわいそうでできません。折れるから、折れるから、と、言わないでください。恐怖心を与えないでください。折れるかもしれないけれど、折れないかもしれない。そんなことは誰にもわからないのです。自分で動いているだけで折れる可能性もあると言われているのだから、それでも今のところ折れていないのだから、怖がって何もしないよりも、少しずつできることを増やしていきたいのです。

そんなに孫が心配ならば、なぜ私を守ってくれなかった。私は母に、それを問いたい。どう考えてもおかしいだろうという回数骨折を繰り返していた幼少期、それでも遺伝はしないと言った先生の言葉を信じ、私は障害者だと認められていなかった。だから、私は他の子と同じように過ごしていました。

体が小さいことや、どうしても歩くのや運動がにぶいことをネタにいじめられ、そして体育の時間は骨折するかもしれない恐怖を抱えながら園生活を、学校生活を過ごしていました。

首の骨が折れたら私は終わりだと思いながら、それでもやらなければならなかったマット運動。毎回、でんぐり返しなどをするときは「いちかばちか」でした。鉄棒では両腕を打撲し、背が小さいためにプールでは何度も溺れかけました。

保育園に、学校に行くと思うと吐き気がひどくなり、朝食は毎日食べられず家を出る頃には歯がカチカチ鳴るくらいに震えが始まり、通園、通学途中の道端で吐くこともしばしば。どんなに体育が怖いと言っても、折れるかもしれないからやりたくないと言っても、母は絶対に連絡帳に書いてくれなかった。休みたいなら自分で言いなさい、とだけ言って。保育園に通っている幼い子供が、小学生が、「私骨が弱いので、体育はできません」なんて言って、どれだけの大人が信じるのでしょう。私は受け入れてはもらえなかった。私にとって保育園に行くことが、学校に行くことが、どれほど恐ろしかったか。そんなに孫を心配するのなら、どうして私を守ってくれなかった。あの時の恐怖感は、今でも忘れられません。そしてあの時の悲しみも、今でも忘れられません。

骨形成不全だと診断されてからは、母は一変して私を家に、施設に、閉じ込めようとしました。外に行きたいと言うと「折れるぞ」「折れてもいいのか」と言い、折れるに決まっている、それでもいいのかと脅しにかかる。私が私の意志でどこかに出かけたいと思い、実行に移せたのは高校生の頃です。その時も出かけるその瞬間まで、「折れるぞ」「折れてもいいのか」「今からでもやめろ」と言い続けました。骨の弱い私にとって、「折れるぞ」という言葉は何よりも恐いもの。それを知っているから母は、この言葉を言うのです。

テンくんには、私がしたような思いはさせたくない。「折れるぞ」「折れるぞ」と、あたかも折れることがあたりまえのように言い、恐怖心を植えつけることは絶対にしたくないのです。折れないと思うから、私たちは連れて出るのです。折れると思ったら、やりません。だってテンくんは、愛しい我が子です。何にも換えがたい、世界中探してもそれ以上のものは見つからないくらいの、宝物です。その子に、痛い思いをさせようなんて、誰が考えるものか。二言目には「おまえたちは若いから何もわかっていない」と言うけれど、そりゃあ私たちは母に比べたら若いけれど、でも今私たちが持てる力精一杯でテンくんのことを考えているのです。

どうか、やめてください。
命令口調を。脅しを。
テンくんのことを何も考えていない、テンくんがかわいそうだと、泣かないでください。じゃあどうしろと言うのですか。家に閉じ込めておくことなんて、できない。したくない。私たちは私たちのやり方で、それがベストだと考えるやり方で、テンくんを育てていきます。だからどうか、もうやめてください。心配なのはわかります。意見も聞きます。だけど、その通りにはできないことだってあるのです。そこをどうか、わかってください。あなたの子供ではない。私たちの、子供です。

疲れました。
なんだか疲れました。
私たちは間違っているのでしょうか。
テンくんに障害を遺伝させてしまった私が悪いのでしょうか。
違う。そうじゃない。
違う。
私は親です。
テンくんを一番に考えているつもりです。
なんだか疲れました。
しばらく私の母と闘っていかなければなりません。
どうにか、頑張っていこうと思います。

この世に産まれられなかっただけ

2008-04-19 02:28:07 | 思うこと。
撮りためていた「オーラの泉」を観ました。

流産したことが、今まで生きてきた中で一番つらかったと言っていた松居一代さん。だけど江原さんは、「赤ちゃんは、この世に産まれられなかっただけ。二人の間に授かったことは事実なんだから。姿が見えないだけで、いつも一緒にいるんですよ。存在していたんだから」と言っていました。いつかこの命が終わった時に、天命を全うした時に会えます、楽しみが増えましたねって笑顔で言っていた。

観ながら、涙が溢れてきました。私が2005年に流産してしまった赤ちゃんもこの世に産まれられなかっただけで、存在していたんだから、いるんだ。いつも一緒にいるんだ。ただ産まれられなかっただけ、授かったことは事実なんだから、って、なんてことはないというように暖かい笑顔で発せられた言葉に、すーっと救われた思いがしました。

あの子は女の子だった気がしています。テンくんの時も最初からなんとなく男の子って予感がしていて当たったから、きっとあの子は女の子だったと思います。2006年1月に産まれるはずだったから、今2歳だね。あの子には、太陽にちなんだ名前をつけようと決めていました。今も一緒にいるのかな。いつも見守ってくれているのかな。弟であるテンくんを守ってくれているね、きっと。

いつか私が天命を全うした時、会えるのが楽しみです。たくさんたくさん抱っこしてあげよう。あの子はいつまでもずっと、私たちの「第一子」です。

春の夜の、風のにおい。

2008-04-15 23:46:28 | 思うこと。
さっきベランダに出たら、春の夜特有の、あったかな風のにおいがしました。

懐かしいなぁ。国リハ(国立身体障害者リハビリテーションセンターのこと。障害者が就職に向けて色々な技術を身につける専門学校のようなところ。私はインテリアデザインを学んでいました)で、友達と夜敷地内を散歩していた時に思ったことを鮮明に思い出します。

いつも思うけれど、においとか音楽とかって、その時その時に強烈に感じていた思いをわらわらとリアルに思い出させるな。あの時、私はまだ18歳で、将来にとっても不安ばかりでした。

まだ旦那と付き合っていたわけじゃなく、知り合ってはいたけれどまだ友達で、そもそも私に彼氏というものはできるんだろうか、そもそも私は人に好かれるんだろうか。結婚とか、そんなの夢のまた夢だな、私には縁のないものかもしれない、親元を離れることができるんだろうか、自分で稼いで食べていくことができるんだろうか、そもそも将来に希望はあるんだろうかと、漠然とした不安でいっぱいだった。明るい要素は、何もなかったのです。少なくとも、具体的になにか、明るい未来が見える気配は何もなかった。

それがいまや、旦那がいて、息子がいて、この幸せな毎日。あの時から考えたら、うそみたいな毎日だなぁ。

国リハを出て就職して一人暮らしして、旦那と同棲したいからって会社を突然辞めて実家からあわただしく出て、旦那が一人暮らししていた家に住み始めて全く新しい会社に再就職して、旦那の両親が猛反対して結婚式にも旦那の親族は誰も来なかったのに旦那は私と結婚してくれて、その後夫婦で転職して引越して、そして妊娠して流産して不妊治療して妊娠して、出産して。振り返ってみたら私の人生、結構濃いな。やりたいこと、やってるな。後悔なく、生きてこれてるな。いいことだなぁ。ただひとつ、この前腰痛に悩まされていた約3ヶ月間、これだけは唯一ものすごくマイナスな毎日を送ってしまったと少し後悔です。いつもどんな時も、ある程度プラス思考でやってこれた私。沈んでも、すぐに浮上していました。だけどあの時は、毎日毎日マイナスへマイナスへ自分が進んでいた。今振り返ると、ものすごくもったいない毎日を過ごしてしまった気がしています。あれも必要なことだったし、だから今があるんだし、だからいいのだけど、でも毎日をいかに楽しく過ごすか、どん底の状況こそチャンスだと聞くのに、それをいかに有意義に過ごすかなのに、あぁあの時間はなんだか自分の中にグレーな色で残ってしまいました。だから今後、同じことを繰り返さなければいいのだから、学んだのだから、無駄じゃないのだけど。少し、そんなことを思いました。

これからもずっと、春の夜の風のにおいを感じたとき、国リハで思っていたあの気持ちを思い出すんだろうな。そしてそのたびに、今が幸せだなぁと感じることができるといいな。そんな未来に決まっていると、そうに違いないと思うけれど。幸せでない将来はないと、私が私でいる限り、私に、大好きな人がたくさんいる限り、将来は幸せであるに違いないと静かに思っているけれど。なんだかほんわか、幸せな夜です。

子育ての考え方。

2008-03-30 23:04:59 | 思うこと。
赤ちゃんは、何もわからない。今くらいの時のことは記憶にも残らないし、今泣いたり怒ったり笑ったりするのは成長過程の一部であり、深い意味は持たない。そういう声を聞いたことがあります。

例えばものを握ったら放さないのは反射だとか、新生児のうちに笑顔になるのは頬の筋肉がゆるむだけとか、確かにそれは正しいと思います。その通りなんだと思います。だけど、私はそうは思わない。思えない、思いたくないのです。

私も旦那も、感覚を大切に、子育てしていきたいと思っています。新生児のうちも、笑うのは嬉しいからかもしれないし、お腹もいっぱいでオムツも濡れていないのに泣いているのは、寂しいからかもしれない。手を握って放さないのは甘えたいからかもしれないし、離れないでって言ってるのかもしれない。そう思ってきました。私はこれまでも日記に、子供は自分から発信することがうまくできないだけで、本当はすべてわかっているんだと思う、と書いてきました。それは今も変わりません。テンくんはすべて、わかっていると思います。私が軽々抱っこできないことも、そう簡単にお散歩に行けないことも、お出かけの時はいつもベビーシートに乗っていなきゃいけないことも、なにもかも。

テンくんは、「抱っこしてよ」とは泣きません。と、いうか、テンくんはほとんど泣かない子です。ぐずることもほとんどない。病院にいた頃はよく泣いていました。ぐずることも多かったみたい。だけど家に帰ってきてからは、まったく泣きません。退院してしばらくは夜中に突然思い出したように悲鳴めいた声を上げて泣いていたけど、隣にいるよ、大丈夫、大丈夫と手を握ってとんとんしていたら数日後には落ち着いてきました。今はもう、たとえ夜中に目を覚ましても、泣きません。泣かずに、あうあうと声を出したり、私の髪をひっぱったり私をとんとん叩いたりして起こします。そして私が起きるとにっこり。寝ぐずりもほとんどありません。あまりに泣かないから、彼の私を起こす声に気付くのが遅くなってしまった時はかなり悪かったなと思うのです。たまには泣いてもいいんだよ、テンくん、と思うことも。

抱っこしてとは泣かないテンくんですが、構ってよ、と不機嫌になることはあります。その絵本あきたよ~とか、その遊びは今はいや~とか、そういうのを訴えることはある。そうするとパターン化していた遊びを見直して、さらにテンくんが楽しめるように私も旦那も頭をひねって考えます。新しい遊びをしてみて、楽しいぞとわかると目をきらきらさせるからこっちも嬉しくなる。そうやって過ごしています。

私も旦那も、息子とは対等にいたいと思っています。子供だからとか、今はまだ赤ちゃんで何もわからないからとか、少しも思ったことはありません。常に対等。泣くことにも、笑うことにも、怒ることにも、何か意味があるに違いない。一生懸命あうあうとお話するのは、何かを訴えたいのだと思う。今彼が何を言いたいのか、何を求めているのか、私たちは常にそれを考えています。そして私たちの身に起きていることも、常に息子には普通に話しています。きっとね、わかっていると思うんだ。もちろん、後になってあの時のことを覚えているかって言ったら覚えていないだろうし、だけどね、ただ覚えているという子がいないだけで、もしくは、覚えているかどうかを確かめた大人がいないだけで、その時その時を生きている赤ちゃんは、一瞬一瞬を「生きて」いるのだから、ちゃんと感じて、思って、考えて、いるのだろうと思うのです。だってね、今痛い思いをしても、寂しい思いをしても、大きくなったら覚えていないから大丈夫なんていう理屈、まったくおかしいと思いませんか。大きくなったら覚えていないかもしれないけれど、「今」は間違いなく痛さも寂しさも「感じている」んだよ。それを無視していいわけがない。

私たちにとって一日一日が大切な時間であるように、息子にとっても一日一日も、かけがえのない時間であることに変わりはない。だったらやっぱり、少しでも楽しく、幸せに過ごさせてあげたいと思うのは当たりまえだと思うのです。今彼はまだ、自分で楽しく過ごすことはできない。残念ながらそのすべはまだ、持っていない。だから私たちは、彼と一緒に楽しく過ごすことを一番に考えているのです。彼が、たとえ大きくなった時に覚えていなかったとしても、「今」幸せに過ごせるように。

昔何かの番組で聞いた言葉が忘れられません。
「今のおかあさんたちは子供をいかに育てるか、を考えている。だから疲れてしまったり、思い通りにならない時にいらいらしてしまったりする。そうじゃなくて、子供と一緒に過ごす時間を、いかに楽しむか、を考えれば、子育てはそう難しいものじゃありません」
いかに楽しむか。
ボランティアを頼まないと外出できなかった高校時代によく思ったことです。ボランティアも楽しんでくれないと、私も楽しくない。だからボランティアはボランティアとして来るのではなく、一緒に楽しむ仲間として来て欲しい、と私は常に思っていました。

それと同じ。
私が、私や旦那が楽しくなければ、テンくんは楽しくないはず。一緒に心から笑うから、テンくんも心から笑うんだと思う。毎日、私たちはそうやって、テンくんと常に同じ目線に立って過ごしています。

赤ちゃんは何もわからない、
今の時期のことは大きくなってからは覚えていない、

そうは思いません。思えません。

何もかも、データに基づいて考える考え方は寂しいと思います。

脳波や脳の画像から、残念ながらこの子は笑うことも泣くことも、一生できないでしょうと言われた子が、目でママを追い、嬉しい時はにっこり笑い、悲しいときは泣いている姿を私は見たことがあります。
ずっと呼吸器をつけていてYesもNoも意思表示できなかった子が、劇的な回復をみせて呼吸器が取れたとき、実はすべて何もかもわかっていた、という状況を目の前で見たことがあります。その子は4、5歳で、周りに起きているすべてのことを実は理解していて、字まで読めたりして、意思表示できるようになったあとしばらく、周囲は驚きの連続でした。彼はただ、自分から発信できなかっただけで、いや、もしかしたら発信していたのに周囲が気付かなかっただけかもしれない、ただ、周囲と通じ合えなかっただけで、実はすべてわかっていたのです。

だから私たちは、これからも息子とは対等でいます。すべてわかっているものと考えて、接していきます。それがたとえ、少し変わった子育て方法だとしても。私たち家族はそうやって、お互いに成長していきたいと思っているのです。

整形の話と、私の思い。

2008-03-11 19:22:48 | 思うこと。
今日は整形の受診日でした。
これまでテンくんと私の担当だった先生は3月いっぱいで退職のため、今日からはその先生から紹介を受けた先生にかかることに。診察室に入っていったら、まずこの骨形成不全症については専門病院がいくつかあり、そちらのほうで診てもらったほうが今後を考えた場合いいのではないか、もし骨折が起きて固定や手術が必要になった場合、一般の治療法であればこちらの病院でも対処できるが、骨形成不全症に対しての治療と考えると最良の治療ができるかどうかわからない、だから転院も含めて考えていったらどうかと話を受けました。

テンくんが骨形成不全だとわかった時、小児科からも転院の話が出ました。この病気に詳しい、たくさんの症例を診ている先生がいる病院がほかにいくつかあることは私も知っています。もちろん、そちらに行ったほうが色々な症状を診ている先生がいるわけだし、安心なのかもしれない。だけど、私はそこに「行きたくない」から行かないのです。

ひとつの病院は、私が小学生の時に大変嫌な思いをした先生が今もいらっしゃいます。骨が弱いというのに、骨形成不全だと知っているのに、その先生は私の足をものさしでバンバンと叩きました。こうやると、骨が丈夫になるよと言って。まだ小学生だった私はその行為が怖くて怖くて、だって折れてしまうかもしれないというのに、笑いながらその先生は叩くんです。その恐怖といったら、言葉でどう説明したらいいかわからないくらいのものでした。大泣きしたことを今でも覚えています。その先生は私に、骨の中に金属の棒を埋め込む手術をしろとしつこくしつこく何回も言い続けました。私は必要以外の手術を受けるのはいやだったし、貴重な時間を病院で過ごすことがものすごく嫌だった。だからそのような手術は受けたくないと言いました。母も同じ考えでした。幸い私は骨の変形が顕著に現れてはいなかったため、変形を治す、という意味での手術は不要だったのです。骨折してやむを得ない入院ならば仕方ないけれど、わざわざ折れていない骨を傷つけて動けていたものを動けない状態にする(もちろん、今後さらに今よりよい状態にするために行うものであるということはわかっているにしろ)、というのは私たち母子は必要ないと考えたのです。しかしその先生は手術をすすめました。そしてこうも言いました。「手術したって歩けるかわからないけどね。手術したって折れる時は折れるけど」と、笑って。その先生と会っている間、私がどんなに恐ろしかったか。今でもあの時の恐怖は消えません。この先生には二度と会いたくないと思いました。

この先生に、骨形成不全症を持ちながらの出産をことごとく否定され(遺伝するとわかっていながら産むというのは、世の中に対して迷惑だと言ったとか)、中絶を余儀なくされた知り合いもいます。だから私はこの先生がいる病院にはどうしても行きたくない。違う先生が担当になるかもしれないじゃないかと言う人もいるけれど、でもどうしても、行きたくないのです。

また他の病院も、骨形成不全症なんか本当は診たくないんだ、なぜあなたは遺伝するとわかっていて出産したの、と言う整形の医師がいると聞きました。遺伝するとわかっていたら、その可能性が高いと知っていたら、その人には妊娠、出産する権利はないのでしょうか。障害がある子供が産まれてきたら、障害を持って産まれてきたら、その子は不幸なのでしょうか。障害がある子を産んでしまったら、それは社会に対して迷惑なのでしょうか。私はそんなことないと思っています。どうしてそんなことを言われなければならないのか。もちろん、障害のない子を産めたらそれは一番いいことだと思います。誰だって、そりゃそうだよ。だけど、だけど、障害がある子を産んだからといってそれが不幸につながるかと言ったらそれは違うと思う。そんなことは絶対ない。障害があったって、幸せに生きられる。障害があるからこそ感じられる幸せだっていっぱいあります。障害の有無なんて、人生を生きていくうえでなんの障害にもならない。その人がどう楽しく生きるか。どう楽しみながら過ごせるか、だと思っています。だいたい、第三者に迷惑だのなんだの、言われる筋合いはありません。その人の人生は、その人のものだから。

人が生きていくうえで一番重要なことは、心だと思っています。どんなに物質が満たされても、体の機能が満たされても、心が満たされなければそれはとても悲しいことだと思います。

私は高校を卒業するまで、障害児がたくさんいる施設にいました。そこには座ることを目標に、またはつかまり立ち、歩けることを目標にと次々に子供が入ってきました。まだ3、4歳の子供もたくさんいました。おかあさん、おかあさんと号泣し、ご飯も食べられず、私のところに来ては「あとなんこ寝たらママくる?」と聞く。そこは看護師さんや保母さん、助手さんなどが厳しくて、動きが悪い子のことは足でつつく、好き嫌いがある子には吐いてでも食べさせる(泣きながら、吐きながら、本当にゲーっと戻しているのにもかかわらず次々に食べ物を口に運ぶのを見て、泣きたくなりました。その子は自分で手を動かすことも、椅子から降りて逃げることもできない障害を持つ子でした)、食べるのが遅い子にはほっぺたが食べ物で膨らんでしまうくらいに食べ物を詰め込む、何かあればすぐ叩くなど、今だったら虐待と問題になるのではないと思うくらいの環境でした。食べ物にゴキブリの子供が浮いていたり、配膳車にゴキブリが走っていたり、パンにカビが生えていたりは当たり前。そういうところに私はいたのです。

そこにいる子供たちは、確かに座れるようになったり、立てるようになったり、機能面での回復は多く見られました。座れなかった、ハイハイできなかった、立てなかった子供を前に、おかあさんたちはとても喜んでおられました。だけど、子供たちは大人に気を遣い、たった3、4歳の子供でさえ看護師たちの顔色を読みながら生活していたのです。相手が怒ったと思えばすぐに「ごめんなさい」とビクビクしながら言い、相手が喜ぶと思う言葉を選んで使い、甘えることなどせず、うまくうまく生きようとしていたのです。その姿を見て、果たして機能面での回復と、のびのびと子供らしく生きられる環境、どちらが大切なのだろうと思いました。私の中にも、同じようにその施設に長くいた友人の中にも、確かにこの施設で経験した傷は深く残っています。もうこれは消えません。人を恐れ、人に媚び、とにかくうまく生きようと、自分が傷つかないように、傷つけられないように生きようとする癖。私は旦那と出会ってかなり解放されましたが、やっぱり今でも悪夢を見ます。心に負った傷は一生消えない。私は身をもってそう、感じています。

同じように、骨折を繰り返していた小学生の頃入院していたほかの病院でも嫌な思いをしました。トイレに行きたいと言っても行かせてもらえず、便の介助はいやだと看護師に拒否され、水が飲みたいと言ってももらえない。回診にくるたびに医師は「あなたのための病院じゃない。こんなに骨折されたら困る。明日出て行け」と言う。小学生の私に、です。母はこの先生に手術してもらって歩けるようになったので、私がいくら「こう言われた」と言っても信じてくれない。母に対してはその先生は特に何も言わず、だから母にとってはとてもよい先生に映っていたのです。八方塞とはまさにこのこと。どうにもならない状況で、病院のベッドの上で毎晩私は泣いていました。

今日お会いした整形の先生に、ざっとですが私が他の病院に連れて行きたくない理由をお話しました。先日まで診ていただいていた先生が私にとっては初めて、整形外科で信頼できる先生だったのです。しかし今度の先生は、「おかあさんが嫌な思いをしたというのはよくわかりました。ただ、息子さんのことを思えばおかあさんが頑なに他の病院には行きたくないというのはよくないのでは?結果的に専門の病院で診てもらうほうがいいのではと思うのです」とおっしゃいました。もちろん、先生が私たちのことを考えて、それが最善であろうと思ったからこそ言ってくれたのだということは、わかっています。何も、「ここじゃ診れない。他へ行け」と言ってるわけではない。ただどうしても私には、「できれば他へ行ってくれ」と遠まわしに言われている気がしてなりませんでした。

あなたは、
あなただったら、
遺伝するとわかってるのに産んだのか、と言われたり、
折れるかもしれない足をものさしで叩いたり、
そういう医師がいる病院に、
あなただったら、行きますか?
行きたいと、思いますか?

私は思いません。
他にも専門の病院はあるのでしょう。私が知っているのは本当に、少数の病院だけです。だけどどうしても、新しい病院にかかるパワーがありません。今の病院が初めて、心から信頼できる病院だったのです。

専門の病院だったら技術が高いかもしれない。経験は豊富かもしれない。だけど心がなかったら、なんにもなりません。骨はまっすぐになるかもしれない。歩けるようになるかもしれない。だけど心に傷が残るのなら、それは決して最善の方法だとは言えないと私は思うのです。

嫌な思いをするかもしれないと、少なからず、そこにはそういう先生がいるとわかっているのに、そこに行くことは私にはできません。だって治療中に、息子が嫌な思いをするかもしれないでしょう。その可能性があるとわかっていながら、そこを選ぶ事は私にはできないのです。

どうしても今の病院で治療が難しいとか、どうしても手術が必要になったとか、そういう状況になったのならほかを考えなくてはならない。だけど、技術が高いが息子が嫌な思いをするかもしれない病院と、経験は少ないけれど必死に考えてくれる今の病院があったなら、後者を選びたいと思います。この先どんなことが待っているかわからないし、私のように変形が少ないとしたら手術も必要ないかもしれない。折ることを前提に、手術を前提に、すべてを考えていくことはしたくないと思っています。旦那も同じ考えです。今後も整形は今の病院で、もしどうしても難しいという状況が来たら他への転院も考えるということで今日は落ち着きました。

難しいね。
信頼できる医師かどうか、信頼できる病院かどうか、私たち家族にとってはそれが一番重要なのだけど。私自身が嫌だとかなんだとかではなく、私はただ、息子にとって最善であると思う環境を選んでいきたいだけなのです。

生きるとか、死ぬとか。

2008-03-06 01:07:32 | 思うこと。
過去に3回、死のうと思った事があります。
私は「死ぬ」という言葉が大嫌い。
人間いつかは死ぬもの。それは誰もが避けられない。
だったら今を、
与えられた時間を、
与えてもらった命を、
大事に生きなければもったいない。
人間は「生きてる」んじゃなくて、「生かされてる」もしくは「生かしてもらってる」んだと思っている私。だからこそ、自ら命を絶つというのは、私はどうしても認められません。ひどくつらい状況もあるんだろうし、耐え難い現実もあるんだろうし、だけど、生きていることがどんなに奇蹟か、生かされていることが、産まれてこれたことがどんなに奇蹟か、それを考えたら絶対に、自ら命を絶つなんてことはできません。もし、もしも命を捨ててしまおうと考えている人がいるなら、私の大事な、生きたくても生きられなかった友達たちに、もっともっと生きていたかったはずの大切な人たちに、その命をあげてほしいと何度願ったことか、わかりません。だから、私自身は精一杯めいっぱいに、「生きて」いるんです。

でもそんな私も、過去に3回、もうどうしようもなくなって「死」を意識したことがありました。

1回目は保育園の時。
2歳の時から通っていた保育園ではいつもいじめられ、保育園に行く道中、毎日のように私は道端で吐いていました。保育園に行くと思うと恐ろしくて、朝食も喉を通らない。毎日毎日、私は怯えていました。突き倒されたら骨折する。仲間外れなんて当たり前。それは私の両親が障害者だからと向けられたものではなく、すべての行動に少しずつ遅れを取っていた私自身に向けられていました。

たしかあれは5歳くらいだったのだと思う、ある夜。寝ている時ふと目が覚めて、「ああ今物干しから飛び降りれば死ねるかな」と考えました。そうしたら保育園のみんなはどう思うだろうか。両親は泣いてくれるかな。その頃私は、「どうしてお母さんは働いていないのに、私は保育園に行かなければならないの」と聞いたことがありました。保育園には母親が仕事を持っている子供たちが通っていました。でもうちのお母さんは働いていない。それなのになぜ?と子供ながらに不思議に思ったのです。母の答えはこうでした。「おまえがいると大変だからよ」。

私のショックは計り知れないものでした。
今思えば、母も体力的にきつかったのだろうと思います。わかりますよ、今ならその意味も。決して私を邪魔だと言いたかったわけじゃない。愛情を持っていたことは、今ならわかる。だけど当時の私にはわからなかった。私がいると、母は大変なんだ。私はいないほうがいいんだ。そういう思いが湧きあがるのに、そう時間はかからなかった。

父は仕事ばかりでした。父に遊んでもらった記憶はほとんどありません。トランプは一緒にやったっけな。だけど私は寂しかったのです。もっと構って欲しかった。もっと遊んで欲しかった。もっと抱きしめて欲しかった。そういう思いが、日々のいじめにプラスされて、「ああ今私が死んだら、みんな私の事を想ってくれるかもな」と考えさせたのです。

今思うと、保育園に通ってる子供が「死」を選択しようとするなんて、恐ろしい話です。あの時、「でも私が死んだら、悲しんでいるみんなの姿を私は見れないじゃないか」と気付けてよかった。あの時死んでいたら、今はないのだから。


2回目は、小学生の時。
骨折を繰り返して繰り返して、治ってもまたすぐに折ってしまって、もうこの痛みから、苦しみから解放されたいと思ったのです。松葉杖で歩けるまでに回復したある日、散歩から戻った時に玄関先で転び、また骨折しました。その時「包丁持ってきて!!もう死ぬから、包丁持ってきて!!もう痛いのはいやだ!!」と叫んだことを覚えています。隣のおばさんが必死で「バカ!!そんなこと言うもんじゃない!!」と止めてくれたっけ。あの時ももうどうにもならないくらいにつらかった。救急隊が来るまでの間、私は「死ぬ!」と叫び続けました。でもあの時があったから、今があるわけで、あの出来事も、「今」を作るためのひとつの大事なパーツなわけだから、今思えばあれも必要なことだったんだなと思えます。本当に骨折は痛いし、つらいことなんだけれどね。その渦中にいるときはどうにも、冷静な判断なんかできないんだけど。

3回目はついこの間です。
テンくんが骨折をして、病院に運ぶまでの車の中でふと、「ああこのまま死んだら、これ以上テンくんに痛い思いをさせずに済むのかな。私も一緒だったら寂しくないかな」と、本当にふと、頭をよぎりました。自分で自分が恐ろしくなりました。遺伝するとわかっていて産んだし、それでも人生素晴らしいよと伝えていけると自信たっぷりだったし(今もそうだけど)、それなのに私の勝手で息子の人生を終わらせようと一瞬でも考えてしまった事に恐怖を感じました。親が、子供のために、と勘違いしてしまう気持ちが少し、わかりました。もちろんそんなことはしないし、「死ぬ」なんて考え大嫌いだし、だけど、やっぱり私がこれまでしてきたような痛い思いをさせてしまうのかと考えたらやりきれなくて、ふと、そんな考えが頭をよぎったのです。恐いね。

その話を母にしたら、「おまえね、そんなこと言ったらお母さんは何度お前と一緒に死のうと思ったかわからないよ?そんなこと言ったらおまえ、何度死んでるか。そんなこと言ってんじゃないよ」と言われました。このとき初めて、私が骨折した時母もつらかったんだとわかりました。そうか。そうだったのか。2005年に妊娠した時、母は「産むな」と言いました。毎日のように電話をしてきて、「ダメになったか。生理はきたか」と言いつづけました。私はものすごいストレスを感じていて、それが原因で流産したんじゃないかと思うくらいに悩みました。でもあの時母は、自分が味わってきた苦しみを、私に味わわせたくないと思ったから反対したんだとその時話してくれました。そうだったのか。て、いうか、その時言ってくれよ!私がどんなにこの2年悩んだか!そんなこんなで、母とのわだかまりも解消し、今母は私の一番の理解者です。まったく、言葉って大切。言葉にしなければ伝わらないことってたくさんあるなと改めて思いました。

私は、人間が自ら「死」を選ぶ権利はないと思っています。
末期がんで自ら尊厳死を選ぶのはまた話が別だと思うけれど、やっぱり命あっての人生。生きているから、生きていれば、いいときがくるんだと信じています。もう二度と「死」なんて考えません。この先どんなことが待ち受けているかわからないけれど、だけど苦しみだけが待っているなんてありえない。神様そのへんちゃんとうまくやってくれているはず。だから絶対幸せもめいっぱい感じられるはず。今度もし辛い時がきても、もう私は「生きる」ことにだけ目を向けていきます。

歩く、ということ

2007-07-26 20:36:17 | 思うこと。
歩けることにどれくらいの意味があるんだろうと思います。

歩けないから自信が持てないとか、
外に出られないとか、
声が小さくなるとか、
精神的に弱いとか、
友達ができないとか、
そんなのは本当じゃないと私は思うのです。

厳しいのかもしれないけど、でも子供のできないことをすべて「歩けないから」を理由にしちゃ、親がそんな考えではダメでしょう、とテレビを見ていて切に思いました。私は厳しいのかしら。

私の父も歩くことにものすごく執着する人です。今でも、「いつかお前は歩けると信じている。いつか障害者手帳を返す日がくると信じている」と言います。歩けるかどうか、障害者手帳を持っているかどうかなんて、そんなに大きなことじゃないと思うんだけど。

骨折を繰り返していたある日、骨が重なってしまってこのままでは足の長さも膝の伸び具合も変わってしまうという状況になったことがあります。オペをするかどうかと検討されていた時、私は泣きながらこのままにしてほしいと頼みました。確か小学校5、6年の時。歩けなくなったとしても、これ以上もう痛い思いはしたくなかったから、つらい思いはしたくなかったから。だけど父は最後まで、歩けなくなるからオペを受けろと言い続けました。私がどんなに痛いか、つらいか、それよりも歩けるかどうかを言い続ける父に愕然としたものです。

私は高校生の時、最終的に自分で歩かないことを選択しました。昔は歩かなくちゃいけないと思っていたけど、どこかではいつも、なんで恐い思いしながら歩かなくちゃいけないんだろうと思っていた。歩くことは私にとって、恐怖以外のなにものでもなかったのです。風が吹いても転びそうになる、転んだらほぼ100%に近い確率で骨折、入院、否応なしに数ヶ月寝たきり、階段なんて毎回泣きそうになりながら上り下りしていました。大人にとっての3ヶ月なんてあっという間かもしれないけれど、子供にとって、少なくとも私にとっての3ヶ月はものすごく貴重でした。決して病院のベッドの上で過ごしていてはいけない期間だった。だから、入院しないように、痛い思いをしないように、毎日毎日息をつめるように歩いていたのを思い出します。つらかったな。

だから骨折を繰り返して歩けなくなっていた高校生の時、手術をすればまた歩けると言われたけれど、私はもう歩かないことを自分で選択しました。歩かないと決めたらものすごく気持ちが楽になりました。骨折のリスクが減ったことで、精神的にものすごく楽になったのをよく覚えています。父は猛反対したけれど、泣きながら私に歩けと言ったけれど、私はそんな父に疑問を抱きました。私がつらい思いをして、恐い思いをして歩くことに、どうしてそんなにこだわるんだろうと…。親としてはもちろん、歩けたほうがいいのはわかるけれど、それにばかり執着している姿が悲しかったのです。

歩けないよりは歩けたほうが、それはもちろんいいに決まっています。歩けないとそれなりには不便もあるしね。だけど歩くことだけがいいとは思ってほしくない。歩けなくても、歩かないからこそ、人生の限られた時間を有意義に過ごせることもあると、私は信じています。

支離滅裂だけど、歩けるか歩けないかが人生を大きく左右するとは、私は思いません。どう生きるか、どう楽しく過ごすか、ではないかと思うのです。

決して、歩こうとして頑張っている人たちを否定しているわけじゃありません。ただ、歩くことだけしか見えなくなるのは悲しいことじゃないかと思ったのです。歩けないから、と、それを理由にいろいろなことを「しかたない」とは思ってほしくない。そう思ったのです。

信念

2007-06-26 22:35:12 | 思うこと。
私は昔、とても後ろむきな性格でした。

なんでもかんでもマイナスに取って、両親も含めて周囲の人は全員私のことを嫌っていると疑わず、できるだけ目立たずに小さく小さく過ごしていこうと必死でした。

でもあるとき、信頼していた先生に言われたの。

「なんであんたはそんなに後ろばかり見て生きてるの。せっかく一日過ごすなら、泣いているより笑っていたほうがいいでしょう。せっかく生まれてきたんだから、笑って過ごしたほうが楽しいでしょう」って。

あぁそうか、と気付いたんです。暗く生きるか明るく生きるかは自分次第。自分が変われば、周囲も変わる、って。暗く後ろばかり見て後悔ばかり口にしているより、前を向いて楽しく生きてる人には自然と人が集まっている。それに気付いたのです。

私は日記に、できるだけ日々のなかで楽しかったことや嬉しかったこと、心がほんわかしたことなど、あたたかい事柄を記したいと思っています。そういう目的ではじめたものだから。たまにどこまでも落ちる時もあるけれど、基本的にはプラスな言葉を書きたいと思っている。

でもね、私だって、毎日毎日楽しいことばかり、嬉しいことばかり、あるわけじゃないんです。いやなこともつらいことも、不安も悲しみも、たくさんあります。のほほんと、幸せばかりを味わっているわけにはいかないのが現実です。だけどその中でも毎日、いかに楽しんで、いかに優しく生きるか、を考えて過ごしていきたいと思っています。幸せって、自分が見つけないと誰も見つけてくれないから。ちょっとのことも楽しいと、幸せだなぁと感じられる人でいたいのです。ふっと自分の足元を見ると、結構幸せって転がっているもんです。

まとまりがないけども、私が常に思うことです。信念といえるものでしょうか。私の思いです。

生まれて来てよかったということ

2007-06-08 17:24:56 | 思うこと。
あるところで「障害者が障害者に生まれてきてよかったと言っているのを耳にするたび、本当か?そんなわけないだろう、強がりじゃないかと思う。」という内容の文章を見ました。

なるほど、そう思う人がいるのか、と思いました。そうか、強がりだと思うのか…。そういえば以前、ごく普通に会社でエレベーターに乗って、9階のボタンが高かったからこれまた普通に持っていた財布でぽんとボタンを押したら、「そんなに強がらなくても、頼めばいいのに」と、乗り合わせたおじさんにぼそっと言われたっけ…。私はいつもそうしていたから、強がらなくても、という言葉にぎょっとしました。おお、そう見る人もいるのか…と。強がるとか、思ってもみなかったからびっくりしたの。

なんていうかただね、「今の自分に生まれてきたからこそ出会えた幸せ」に気付いた時、あー私は私でよかったなぁって心から思うでしょう。ただそれだけで、それは障害者だとか健常者だとか関係なく、みんな感じられる気持ちだと思うんだけどな。私は障害者に生まれて来て、だけど私が私でいたからこそ出会えた幸せなことがたくさんあるから、あー私は障害者に生まれてきてよかったなって思うだけで…。障害者に生まれたからこそ感じられる嫌なこともよいこともあって、でも私の中で嫌なことよりいいことがたくさんあるから、あー障害者でよかったじゃんて思うわけです。

気持ちを言葉に表して100%伝えるのは難しいけど、障害者だからとか健常者だからとか関係なく、生まれて来てよかったって思えた時、私は私でよかったと言うだけなんだけどな…。決して強がりでも、なんでもない、素直な気持ちなんだけど…。少しでも多くの人に伝わればいいな。

骨形成不全症という病気。

2007-05-18 19:11:02 | 思うこと。
再放送していたDのゲキジョーを偶然見ていたら、もののけ姫の歌を唄っている米良さんが出ていました。
彼は難病だとか…。その病名は…骨形成不全症。なんと、私と同じじゃないですか!そうだったのか…知らなかった。言われてみれば、骨形成不全っぽい顔立ちをされている…。この病気の方は顔立ちに特徴がある方が多いから、慣れてくるとパッと見で「もしや…?」とわかります。私も母も特徴のある顔をしてる。もちろんいろいろなタイプがあるので、顔立ちに特徴がない方もいらっしゃいますが…。

幼い頃に骨折による入退院を繰り返したことを聞いて、出演者の方々が泣いていました。

変な言い方だけど…私の病気は、人に泣かれるような病気だったのかと驚きました。

私の場合は母も同じ骨形成不全症で、骨が弱いことが当たり前で、もちろんいろいろ辛かったし悲しかったし、大変なことも多かったけど、自分が骨形成不全症であることが特別ではなかった気がします。たくさんのいじめにもあったけど、障害者じゃなかったらと思ったことは今思い返しても…なかったんだよな…うまく言えないけど骨が弱い私が私だったから…。いや、繰り返しになるけど、もちろん辛くて悲しくて悔しかったけど…。なんだか、人に泣かれるような病気なんだってことにただびっくりしたのです。自分にとっては当たり前になっていたこの病気がそうなのかぁ…って…。うまく伝えられないけど、今日思ったことです。

母は少しずつ普通に戻ってきました。電話かけてきて話すことがまともになってきた…。よかった…。年に一度くらいの割合でなにもかもわからないみたいなパニックな状態になるので困りますが、まともに戻ってくれば大丈夫…。しっかり戻ってほしいです。