青い、そらのカケラ

私の大切な毎日。

私の本は

2009-01-29 16:52:38 | 思うこと。
ただ、子供がほしくて
だけど、できにくい体で
だから、とても悩んで泣いて泣いて泣いて

でも、子供ができたことを
そしてとても幸せだということを

多くの人への「ありがとう」と
私が大好きな人たちへの「大好き」と
それをたくさん詰め込んだ、
私の思いがめいっぱいに詰まった一冊にしたかった。
そして、希望通りの本が出来上がりつつある。

私が本を出すというと
「そうですよね、車いすで子育てなんてとても大変なんだってことを知ってほしいですもんね」
と簡単に言う人がいて
そういう人にこそ
ぜひ読んでもらいたいな。
そうじゃなくて、
幸せで
楽しくて
嬉しい人生歩んでいるよって
伝わればいいな。

私を表す言葉

2009-01-18 01:19:22 | 思うこと。
たとえばそれが、一般的な使い方と違っていたとしても
だけどそれが、私が思った、感じた、考えていることを表すために一番的確だと私が思うならば、
その使い方をするのが一番いいと思っていたんだけど
私が私を表すためにはその言葉が一番だったのだけど
だけどやっぱり一般的には、通じないらしい。
難しいなぁ。
悔しいなぁ。
ここは、この言い方が一番しっくりくるのに
というところを
やっぱり一般的な言い方に変えないといけない。
いけないわけじゃないけれど、
やっぱり少しでも多くの人に気持ちを伝えるために
だったらわかりやすい言い方に変えることも必要だと思うから
だから今、自分自身と葛藤しています。
本にするのだから
夢がかなうのだから

あぁそうか私、本を出すんだなぁ

それはすごいことだなぁ

改めて考えるとすごいことをしているなぁ

ずっと思い続けてきた夢が
いつかいつかと願い続けてきた夢が
かなうんだから
それはすごいことだなぁ

だからやっぱり私が私を表すためにこれが一番的確だと
どうしても譲れないところはそのまま残そうと思う
思うよ
それがたとえ人に伝わらないのだとしても
なんとなくでも感じてもらえたらいいのだし
やっぱりそれを変えることで
私が考えている私の思いが
たとえばその言葉を使えば100表せると思っていたのに
変えてしまったら私の中では50しか表現できていないと思うのならば
それならばやっぱり私の言葉で残そうと思う

だけど変えてもいいと思うところは
わかりやすく変えようと思うよ
私の本は、
私の思いを込めた
一冊にしたいから。
がんばろう。編集。

両親の生きていく道

2008-12-15 23:41:33 | 思うこと。
人のせいにして生きるのはもうやめませんか。
誰かのために自分が幸せになれないという言い訳は、
もうやめませんか。
あなたが幸せだと感じられない理由は、
自分が自分を幸せにしようとしていないだけだと
私は感じるのです。
誰かのせいにして自分の人生をあきらめるのは
もうやめたほうがいいと思うのですが。
そんなことをしていても楽しいとは思えません。
「だからしょうがない
だからしょうがない
誰かがこうなってくれれば
私は幸せになれる」
そんなことは期待してはいけない
あなたはあなたの人生を
めいっぱいに幸せに生きればいい
あなたを幸せにできるのは
あなたしかいないのです。

両親の今後について話し合いをしてきました。
老人は、お金がないと、人間らしい生活はできないようです。
もうショートステイにはいられない。
特養に入るにはお金がかかる。とても払いきれない。
在宅に戻るしか道はない。
だけど今、腕が使えない状態では何もできない。
だからヘルパーを一日に3回入れることにした。
だけど、食事の用意をしてもらうことは、介護保険の考え方からすると
「贅沢」
なんだそうです。
では、食事はどうしろというのでしょうか。
食うな、とでも?
介護保険については、「国からできるだけ使うなという指示が出ている」そうで、
金がなくて特養に入れない、だけど自分では色々できない状況にある老人は、
どうやって生きて行けと言うのでしょうか。
死ね、とでも?
うまいものを食いたいという、そう、ただ「言う」ことすらが
「贅沢」なんだそうです。
おかしい。
生きているのだから、年齢を重ねていても、自分で色々出来ない状態だとしても、
今、生きているのだから、
自分の望みを、自分の夢を、言葉にすることは認められてもいいのではないのでしょうか。
おかしい。
この世の中、おかしい。おかしい。
あなたが同じ立場に立ったら、どう感じるの、さぁあなたも、同じ立場に立ってごらんなさい、
どんなに屈辱的か、
どんなに絶望的か、
どんなに生きる気力を失うか、
自分で何かが出来ない年寄りは、
死ね、
と言っているようなものです。
私がやってやれたら
私が動けたら
私が
私が。
私が健常だったら。そんなことは思ってはいけないけれど
こういうときどうにも悔しくなるのです。
どうかできるだけ、
この先それほど長くないであろう人生、
できることならできるだけ、人らしく生きてほしいと願っています。
たった少しの希望すら踏みつぶされるような人生にはならないことを
祈っています。
私にできることがあれば、
私がやれることがあれば、
精一杯にしてやりたいと思っています。
だけど疲れました。
現実を見ない両親。
父のせいにばかりする母。
もう疲れました。
もう、疲れました。
少し休みます。少し、休みます。

すべては必要なこと。

2008-11-28 23:39:17 | 思うこと。
本を出したいという夢が実現に向けて動き出してから、新たな素敵な出会いにたくさん恵まれています。

出版社の企画担当の方。最初に私の原稿に目を通してくださり、私の意図をまっすぐに受け取ってくださって、共感してくださって、出版可能かどうかの会議にかけてくださり、結果、ぜひ出しましょうという嬉しい言葉を言ってくださった。これからは販売促進のほうの手助けをしてくださるそうで、メールで世間話をしたりもしています。多くの原稿が送られてくるであろう忙しい中で、私の原稿を多くの中からすくい上げてくださって、本当に嬉しかった。出版が決まった時は、涙が出るほど体が震えるほど、嬉しかったです。

出版社の編集担当の方。私の意図をやっぱりまっすぐに受け取ってくださり、私が何を言いたいかをきちんと汲み取ってくださり、この文章は載せたほうがいいですよとか、これは削除しないほうがいいですよとか、たくさんアドバイスくださる。私が何を書きたいかをきちんとわかってくださり、ページ数の関係で泣く泣く削除した部分を「復活させましょう」と言ってくださった。この方が編集担当ならば、私の本は私らしく出版できるはずだと思えました。

そして今日、またも素晴らしい出会いがありました。

私がブログに何度も綴ってきた、とても大好きな言葉があります。恩師のHPから引用したもので、私はその言葉に、何度も何度も助けられてきました。その言葉をどうしても今回の本に載せたくて、生みの親である方に許可をいただこうと恩師にお願いしていたのです。

恩師を通じて直接連絡先を知り、メールをお送りしたところお返事をいただきました。脚本を書いていらっしゃるその方は、初対面(対面はしてないけれど…)である私にとても優しいあたたかな言葉をかけてくださいました。私自身もとても言葉が好きで、文章が好きで、これらは書き記した瞬間に財産になるほど貴重なものだと思っているけれど、やっぱりその方も言葉を大事にされている方だなとメールを読んでいてひしひしと思いました。あたたかな言葉がたくさん記されていて、読んでいてほんわかとてもやわらかい気持ちをいただきました。

たくさんの出会いに、感謝してもしきれない思いです。
ありがとう。ありがとう。
出会いは偶然ではなく必然だと、やっぱり思いたい。そう思いたい気分です。

あの時一瞬でも、もしそうするタイミングがずれていたら、もしかしたら出会えなかったかもしれない人たち。たとえばそれは、病院の先生も、車のディーラーマンも、もちろん今回の方たちもそう。すべては私の人生に用意されていた奇蹟であり、今まで生きてきた中で辛かったことも悲しかったことも悔しかったことも、すべてはやっぱりこういう奇蹟につながっている必要なものだったんだなと今ひしひしと思います。すべてはやっぱり、必要だったんだ、と。

生まれてきて、よかったなぁ。私が私で、よかったなぁ。本当にしみじみ、人ってあたたかいなぁ。出会いってパワーをもらえるなぁ。すべては宝ものだなぁ。と、じっくりと思いました。私が私でいたからこそ、出会えた奇蹟。やっぱり人生ってすごいよ。素敵だよ。明日もきっと、いい一日。そうに違いない。たくさんの奇蹟を見つけながら、見落とさないようにしっかり目を凝らしながら、楽しく優しく生きていきたいな。

私の思い

2008-08-16 00:31:57 | 思うこと。
役所から、「息子さんを保育園に入れたらいかがですか」という封書が届いた。
ご主人も仕事復帰されて、奥さんも大変でしょう、1歳になれば公立保育園が受け入れてくれるし、障害児でもアルバイトではあるものの職員が加配されるから大丈夫だとのこと。保育課に聞いておきますね、いつのタイミングで申し込みをしたらいいのか、と。もしも申込をすでに行っていたらごめんなさいとまで書いてあった。

私が息子を保育園に入れることを前提に書かれている手紙に、悲しくて涙が出そうになりました。

私がいつ、息子を保育園に入れたいと言いましたか?

この役所の方は、いつも大変うちのことを気にかけてくれます。離乳食の時期になったら「大変だから、ヘルパーさんを増やしてヘルパーさんに作ってもらったほうがいい」と言ったのもこの人。いつも、大変、大変、と言います。いつも気にかけてくださって、うちのことを思ってくださって、ありがたいと心から感謝しています。この方のおかげで、今のヘルパー業者にも出会えた。だからとても、感謝しています。

だけどね、一方では、とても悲しいのです。そしてものすごく怒りも覚えます。

大変ていうのはあなたが決めることじゃない。私がいつ、大変だと言いましたか?

私は子供が欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、不妊外来にまで通いました。自然妊娠は無理だと言われて、泣き暮らした日々もありました。もう私には子供はできないと、目の前が真っ暗になったこともありました。だけど奇跡的に自然妊娠することができて、妊娠中の毎日は奇跡のような日々でした。幸せという言葉では言い表しきれないほどの幸せに満ちた日々でした。そして無事に産まれてきてくれた息子。今は毎日がとてもとても大切で、毎日がまた、幸せに溢れています。私は、息子と一緒に過ごす時間を、少しも、これっぽっちも「大変」とは思っていません。思ったことがありません。離乳食だって、私は今9割は作っています。ベビーフードにもたまに頼ることはあるけれど、ほぼすべて手作りでやれています。それも大変だとは思っていない。思っていないんですよ。

同じように子育てをしている方々が感じる、一般的に感じる「大変さ」は今後感じることがあるかもしれない。だけど私は、私が障害を持っているから「子育てが大変」とは、口が裂けても言いたくないし、言う必要がないと思っています。

大変だ大変だと言うくらいなら、産まないよ。

大変だなんて思うんだったら、不妊外来にまで通って欲しいと思わないよ。

私が息子に出会えて、どんなに嬉しかったか、幸せだったか、そして今、毎日がどんなに大切かなんて、誰にもわからない。だけど私の毎日を、私の子育てを、「大変だ」なんて言いきることなんて、誰にも許されないと思っています。大きなお世話です。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。もういい加減に、私に対して、大変だという言葉を発するのはやめてほしい。見に来てごらんよ、うちに。どんなに毎日楽しくいるか、困っていることは今のところないんだよ、見てごらんよ、わかるから。もういい加減に、やめてほしいのです。

私は2歳の時から保育園に通っていました。母が大変だからという理由で、特別に近くの保育園に入園が認められたそうです。保育園はお母さんが仕事をしている人が行くものだと思っていた私は、一度だけ、なぜ私は保育園に通っているのかと母に尋ねたことがありました。母は、「お前がいると大変だから」と言いました。それが私の中に深く刺さっていて、かなり大きくなるまで私は、私の存在が母にとって重荷であるんだと思っていました。私は常に、「何もしてくれなくてもいいから、おかあさん、一緒にいてよ」と思っていました。朝から晩まで保育園で、夏休みもない、いつも親と離れていて寂しくて寂しくてたまらなかったことが忘れられません。一度は保育園を抜け出して、家まで帰ろうと横断歩道を渡ったこともありました。とにかく母と一緒にいたかったのです。

私の思いと息子の思いが一緒だとは限りません。もちろん保育園に入れた方が、私ではしてやれないことがしてもらえるし、私とでは経験できないことも経験できるでしょう。それは息子にとっていいことであると私も思うし、必要なんだろうとも思います。だけど、やっぱり私は保育園に入れることは考えていません。私の信頼する教育に携わっている方は、3歳くらいまでは集団で何かすることよりも親とのスキンシップをどれだけ取れるかが大切だと言っておられました。早くから保育園に通わせることを否定しているわけではありません。ただ、私が母親と一緒にいたくてしかたなかったことを、そういう気持ちを持っていたことを、せっかく感じたその思いを、無駄にすることはないと私は思うのです。だから、私は息子を保育園に入れることは考えていません。私の、考えです。もちろん、幼稚園には行かせるつもりでいるし、それ以前でも息子が行きたいと言うようになったら行かせてやりたいと思うし、私自身も体に無理が来る前に色々と手段を考えていきたいと思っています。私だけで経験させてやれないことは、色々な人の手をかりてやっていきたいと思うし、何も頑なに人の手は借りないと思っているわけではないのです。ただ、息子と一緒にいてやりたい。おかあさんと一緒にいた、と息子が思ってくれることが今は一番必要だと思うのです。

役所の方には手紙を書こうと思います。今は必要ないこと、考えていない理由、そして今後必要があったらすぐに相談するのでお願いします、と。大変だ大変だと言われることに慣れていかなくちゃと思うけれどやっぱり、大変だと押しつけられると悲しくなります。大変という基準は人それぞれで、誰かが誰かの「大変」を決めることはできない。それをどうか、わかってほしいと思うのです。

幸せの基準

2008-07-26 13:45:02 | 思うこと。
空が青くて
風が吹いていて
木々の緑がきれいで
人が笑っていて
家族が笑っていて
私も笑っていて
好きな音楽が聴けて
なんかとても今幸せだなぁ

なんて、久しぶりに心にじわっと込み上げてきた。
幸せの基準なんて人それぞれだけど、本当は足元にひっそりと幸せは転がっているんだと思う。今日も素敵な一日。

逃げない 戦う 立ち向かう

2008-07-09 02:24:49 | 思うこと。
見たくない現実は結構たくさんあって
聞きたくない言葉や
知りたくなかった姿や
会いたくない人もいるし
できれば逃げたい現実なんかザラにある。

だけどそれを逃げていたら、
逃げられるものだとして、それから逃げていたら、
絶対人生豊かじゃないし
そうやって生きることは私の生きたい生き方じゃないし
だから私は逃げないけれど
つらいものは
つらいよ。

昔のようにもういつも戦闘態勢でいることはやめたし
だから人のやさしさとかあたたかさとか
まっすぐに心に響いてきて嬉しくなるけど
でもその分
矢はどこにも防がれずに深く刺さってくる。
その言葉がどの程度人を傷つけるかとか
人のプライドをずたずたにするかとか
そんなことわかっていたら発さない言葉だろうし
それをいちいち根に持ったりはしないけれど
でも結構、痛いんだよ。

だけど私は私らしく
私が私に産まれたことを無駄にしないためにも
私は私の生き方で生きていく。

逃げない。
戦う。
立ち向かう。
負けてたまるか。

疲れ気味です。

2008-06-07 02:51:49 | 思うこと。
私の父は、テンくんに私の障害が遺伝したことを未だに認めていません。

「あいつは大丈夫だ」
「あいつは大丈夫だ」

ばかり、電話で言います。

はぁ。
疲れた。

たとえばテンくんが障害者であろうとなかろうと、それがどんな問題なの?
たとえばテンくんが障害者でも、それが原因で彼のこれからの人生に暗雲がたちこめるわけでもないし、これから先「かわいそう」なわけでもないし、ただ、障害があるんです、あぁ、そうなんですか、っていうレベルのことだと思うんだけどなぁ。障害者だとか、障害者じゃないとか、そんなことは問題じゃないと思うのだけど、生きていくうえで。どう生きるか、だと思うから。その人生をどう、生きていくか、それは当人の問題であって、それを少し手助けしていくのが親だと思っているのだけど。

「お前のことは普通に育てた、それでも大丈夫だったんだから、○○(テンくんの名前)も普通に育てて大丈夫だ」

というけれど、
だから私はたくさんの骨折をしたんだよ。
普通に、普通に、それにこだわったから、私はマット運動や組み体操、鉄棒やプールで恐ろしい思いをたくさんし、きっともっと早くに私を障害者だと認めてくれていたならしなくても済んだであろう骨折をたくさんしたんだよ。でも今は、それらがあったから今があると思えるから、結果的にはいいのだけどね、でもね、普通に育てることがいいことばかりだとは、決して言えないと、私は思うんだよ。そもそも普通の定義ってなに?障害がある現実を、無視すること?今、私たちがテンくんを育てている、その育て方も、私たちには「普通」なんだよ。

骨が弱いなら弱いなりに、しなくていい痛い思いはさせないで育てたいし、だって骨が弱くても、人生真っ暗じゃないよ、決して。真っ暗にするかどうかは、本人次第。どう生きるか、だから。

はぁ。どうやって付き合っていこうかなぁ。毎回、毎回、まだ座れないのか、しょうがねぇなぁと言われ、大丈夫だ、○○(テンくんの名前)は普通だ、と言われ、わんわんやにゃあにゃあはわかるようになったか、なんだ、まだか、と言われ、少し、疲れました。かわいがってくれるのはありがたいし、とてもうれしいけれど、あまりに口出しすぎるのはどうかと思うのです。電話がかかってくると、ものすごいパワーを使います。はぁ。疲れました。

大変?

2008-05-31 00:42:03 | 思うこと。
ある人に、「大変だな」と言われました。車イスの夫婦で子供がいて、大変だな、という意味で。

そう言われることに驚きました。
大変?
え、大変て、どこが?
私たちにとっては、そんな感覚です。

たとえば歩ける人が「普通に」歩くように、私や旦那は「普通に」車イスに乗っています。歩ける人が、歩くことを「大変だ」と感じていないように(おそらく多くの人は歩くという行為を無意識にやっていると思うのですが…)、私たちも車イスに乗っていることについて「大変だ」なんて意識はしていないのです。子供がいる「今」は私たちが望んでいたことであって、子供がいることに対して大変だとは感じていません。大変なんていう感覚、本当に今まで感じたことはない。おむつ換えの時にころころ動かれるから大変!とかはあるけれど、育てることに困難を感じる、子供がいる生活に大変さを感じる、なんてことは、これっぽっちも思ったことがありません。だって毎日、楽しさにあふれているから。すてきなことばっかりだもの。子供がいるって、すてきだよ。

だから、大変だなと言われて、あぁそういう風に感じ取られてしまうのか、ただ車イスだからというだけで、という驚きを感じると共に、悲しくなりました。

それじゃあまるで、テンくんがいるから大変と言っているようなものじゃないの。そんなこと、テンくんに聞かせたくない。だってそんなこと、これっぽっちも思っていないのに、私たちはこれっぽっちも思っていないのに、まるで、あたかもそうであるかのように、あたりまとでも言うようにそう言われたら、それをもちろん私たちはすぐさま否定したけれど、だけどそれを私たちがたとえばいない場所で言われたとしたら、テンくんがどんなに傷つくか。おそろしいことです。

私は幼い頃、骨折を繰り返して歩けなくなった時に「まぁあなたまで歩けなくなっちゃって、お母さんがかわいそうだわ」「手伝うためにあなたを産んだんでしょうに、あなたまで障害者になったんじゃ、産んだ意味がないわね」と見ず知らずの人にたくさん言われました。どんなに私が悲しかったか。母はその場で否定しない人でした。ええ大変です、ええ頑張っています、とその場を収める人でした。それがまた、どんなに私を傷つけたか。母はきっと、そう言ってくる人に、いちいち反論することが面倒だったか、または、それほど気にもしていなかったかで、その言動に深い意味を持たせてはいなかったと今は感じています。私が産まれてよかったと、今は言うことがあるから、だから今はそう感じます。だけど当時は、私は私が産まれたことが母に負担をかけているんだと真剣に考えて、とてもとても悩みました。つらかった。あのつらさは忘れられません。

テンくんに、同じ思いはさせたくありません。テンくんが産まれてきてくれて、私たちはテンくんからたくさんの幸せは与えられても、苦労や大変さは与えられていません。例えば人から見てそう感じ取れる状況に私たちがいるのだとしても、それはそれが必要だからそういう状況になっているわけで、できないことは神様は与えないと思っているから、工夫次第でなんとかなると私たちは考えているのです。だから決して、テンくんがいることが、テンくんと出かけることが、テンくんと暮らすことが、大変ではありません。

どうか。
どうか。
わかってください。

負けてたまるか。

2008-05-19 22:07:36 | 思うこと。
私は今まで、私が障害者じゃなかったら、なんて思わずに生きてきました。私は私であったからこそ今の幸せがあるわけだし、私が私に産まれたことには意味があるはずだし、だから私は、障害があることをマイナスには思わずに、思わないように生きてきました。

だけど最近、私に障害がなかったら、と思う場面に度々出会います。

私が障害者じゃなかったら軽々と抱っこしてやれるのに。

もっとたくさん構ってやれるのに。

もっとしてやれることがあるのに。

くやしい。
くやしい。
くやしい。

だけど私は、やっぱり私に産まれたからこそ今があるのだから、
私に産まれたからこそ、大好きな人たちに出会えたのだから、
私が私でいたからこそ旦那と息子に出会えたのだから、
やっぱり私は私に産まれてよかったと思うのです。

負けてたまるか。
負けてたまるか。
こんな弱い自分に負けてたまるか。