河合隼雄氏の宗教についての著述の中に
「人間は弱いもので、常に中心を求める」
というようなことが書かれていた。
その「中心」が神であり、信仰や宗教を人間が求める理由のひとつらしい。
また、人間が持つ欲望の過剰性を律していたのも神の存在であったという。
それが、あるときから神にお金が取って代わったり、
中心自体が崩壊して、収拾のつかない状況になっているところがある。
自分は生まれてこのかた、宗教心は薄く、
ミッションスクールに入っても、一度もチャペルに行ったことがなかったし、
友人に楽しいイベントがあるよ~といわれて、
某新興宗教の洗脳集会に連れて行かれても、洗脳されずに済んだ。
特定の宗教に傾倒するつもりはさらさらなく、
ただ、人智を超えた何かがあるということだけは、感じていたので、
それでいいじゃないかと思っていた。
その延長で、おそらく、自分自身の存在の背後にある何かはなんだろう?
というモヤモヤとした疑問を持ち続けることになったのかもしれない。
今、フェルデンクライスのトレーニング中だけれど、
他にも、タロット関連のワークショップの準備も同時にしている。
自分の身体に関することは表の仕事で、
神秘学的なことは趣味というか、自分の中では裏の仕事。
両方関心があって、それのつながりはなんだろうと思う今日この頃、
表とか裏とかは言っていられなくなってきた。
その2つが「中心」を欲するということで、ちょっとつながった気がした。
神もお金も、結局、それでみんなが幸せにしてくれることははかった。
力のあるものが権力をもち、左ウチワになり、
その一方で苦しむ人たちが出てくる。
もちろん、神やお金が悪いわけではなく、
そこから出来上がったシステムが、あまりよろしくなかったということだろう。
じゃあ、中心をどこに求めるかといったら、
おかしなシステムができないようにするためには、
自分自身が持っている「感覚」を信頼し、中心におくことが賢明なのではないか?
そう、私自身は直感的に感じているのだと思う。
身体を見ていくということは、1つの絶対視するようなセオリーがあるわけではなく、
刻々と移り変わる感覚を見つめていくものである。
一方で、タロットも、起源やバックグラウンドがあいまいな分、
絵札の色、形、シンボルなどを通して沸き起こってくる自分の感覚を
見つめていくものであるともいえる。
それらの感覚は、その個人のたどってきた歴史、見聞きしてきたもの
(もしかすると今世だけではなく、過去世のなかで見聞きしたものも含まれるかもしれない)、
それらによって、全く同じものが出てくるわけではないし、
かといって、全く違ったものが出てくるわけでもない。
それを大切にするということは、自分だけではなく、
他者の感覚も大事にするということにもつながる。
その感覚は、決して、自分だけが権力を握ろうと考えたり、
環境を平気で破壊することにはつながって行きようがないのではと思う。
そして、それが神秘思想の中で言われる
アクエリアス、水瓶座の時代の精神性になっていくのではないかという気がする。
魚座(宗教)の時代から水瓶座(個人の自立)の時代へ。
うまく移行できるかな
「人間は弱いもので、常に中心を求める」
というようなことが書かれていた。
その「中心」が神であり、信仰や宗教を人間が求める理由のひとつらしい。
また、人間が持つ欲望の過剰性を律していたのも神の存在であったという。
それが、あるときから神にお金が取って代わったり、
中心自体が崩壊して、収拾のつかない状況になっているところがある。
自分は生まれてこのかた、宗教心は薄く、
ミッションスクールに入っても、一度もチャペルに行ったことがなかったし、
友人に楽しいイベントがあるよ~といわれて、
某新興宗教の洗脳集会に連れて行かれても、洗脳されずに済んだ。
特定の宗教に傾倒するつもりはさらさらなく、
ただ、人智を超えた何かがあるということだけは、感じていたので、
それでいいじゃないかと思っていた。
その延長で、おそらく、自分自身の存在の背後にある何かはなんだろう?
というモヤモヤとした疑問を持ち続けることになったのかもしれない。
今、フェルデンクライスのトレーニング中だけれど、
他にも、タロット関連のワークショップの準備も同時にしている。
自分の身体に関することは表の仕事で、
神秘学的なことは趣味というか、自分の中では裏の仕事。
両方関心があって、それのつながりはなんだろうと思う今日この頃、
表とか裏とかは言っていられなくなってきた。
その2つが「中心」を欲するということで、ちょっとつながった気がした。
神もお金も、結局、それでみんなが幸せにしてくれることははかった。
力のあるものが権力をもち、左ウチワになり、
その一方で苦しむ人たちが出てくる。
もちろん、神やお金が悪いわけではなく、
そこから出来上がったシステムが、あまりよろしくなかったということだろう。
じゃあ、中心をどこに求めるかといったら、
おかしなシステムができないようにするためには、
自分自身が持っている「感覚」を信頼し、中心におくことが賢明なのではないか?
そう、私自身は直感的に感じているのだと思う。
身体を見ていくということは、1つの絶対視するようなセオリーがあるわけではなく、
刻々と移り変わる感覚を見つめていくものである。
一方で、タロットも、起源やバックグラウンドがあいまいな分、
絵札の色、形、シンボルなどを通して沸き起こってくる自分の感覚を
見つめていくものであるともいえる。
それらの感覚は、その個人のたどってきた歴史、見聞きしてきたもの
(もしかすると今世だけではなく、過去世のなかで見聞きしたものも含まれるかもしれない)、
それらによって、全く同じものが出てくるわけではないし、
かといって、全く違ったものが出てくるわけでもない。
それを大切にするということは、自分だけではなく、
他者の感覚も大事にするということにもつながる。
その感覚は、決して、自分だけが権力を握ろうと考えたり、
環境を平気で破壊することにはつながって行きようがないのではと思う。
そして、それが神秘思想の中で言われる
アクエリアス、水瓶座の時代の精神性になっていくのではないかという気がする。
魚座(宗教)の時代から水瓶座(個人の自立)の時代へ。
うまく移行できるかな
そうですね~、信頼したり疑ったりという感じは良くわかります。
最近は、信頼も疑いもせずに、そのまま放っておくという手も覚えた私です。
少しずつですけど中心に近づいて行きたい
長い道のりですが WELL!!
今の環境は、雑音が多すぎるかもしれないよね。
その中で自分の感覚を聞き分けるっていうのは、
やり続けることが大事かもね。
あと、感じたものをすぐに評価したり決め付けたりしない…
そんなことも大事なのかもしれないと思いました。
フェルデンクライスのワークでも、
「あ!この動き、できるできる!」って早合点すると、大事なモノを見逃していたりします。
最近、感じていることと共鳴したので、思わずカキコしてしまいます。
>自分自身が持っている「感覚」を信頼し、中心におくことが賢明なのではないか?
僕もこのことが、これからの難しい時代(水瓶座への移行)を乗り切っていくkeyだと言う気がします。
でも、安易に自分の感覚に頼るのは怖いよね。フェルデンでもそうだと思うけど、少し瞑想や心理学的アプローチの体験があれば、本当の意味で「自分の感覚」を知ることはとても難しいことがわかる。それをキャッチするには、相当、繊細で確かな感覚を感じ取る能力が必要とされるから。
一方で、現代的な生活はその感覚を麻痺させるもので溢れている。さまざな雑音の中から、僕らは自分の一番深いところからの声を聞き分けていかないといけないという難題をいる背負ってのかも知れないね。