スピリチュアルな分野においては、謎の宇宙的存在や、高次存在からのメッセージを受けて書き残された本があったりする。それに対しては、わりと「うえ~」って思う現実的な私です。
その割には、チベットのマスターからのテレパシーによって書かれた秘教本があり、シュタイナーの著作と並んで、結構好きなのでよく読んでいます。
そして、そのマスターは誰なんだというのがこの記事。興味ぶかいので翻訳機で読んでみましたが、今、世の中的に起きている問題に関連して、大事だなと思ったところがあるのでシェアします。
重要なのは、メッセンジャーが誰か?ではなく、メッセージそのものだということ。そこに対する識別力を育てること、自分で考えること、お手軽に教えてくれる誰かを探さないことが重要だと思う。
今、話題となっているカルト問題にも通じるところがあります。
カルトの勧誘は、最初から宗教だということをにおわせず、人間関係、信頼関係を構築してから入信させるというもの。人は誰でも信頼関係を持った人の言うことであれば、ある程度聞き入れるようになる。
でも、家族であっても仲良しの人であっても、偉い人であっても、いってることおかしくないか?と思う感性は持っていなければならない。それが持てなくなる理由につながるかなということも、分析されているので、Deeplの訳だけれど興味のある人はどうぞ。
「重要なのはメッセージであって、メッセンジャーではないのです。
それでも、私たちは皆、好奇心が強いのです。そこで、私たちがメッセージよりもメッセンジャーに執着する動機は何なのか、少し考えてみましょう。
メッセージよりもメッセンジャーを気にする理由
私たちがメッセージやメッセージに書かれていることよりも、メッセンジャーを気にかけるかもしれない心理的、精神的な理由をいくつか挙げてみましょう。
私たちは、混乱した、孤独な、怖い生活の中で、自分自身の人生と世界を正しくする方法を私たちよりも知っている私たちを見守ってそこに誰かがあることを知って慰めを感じたい。
私たちはロールモデルを求め、道を示してくれる人を求めます。しかし、メッセンジャーを重視するあまり、私たちは識別力を欠くことになりがちです。そうすると、私たちが指針を求めている人(グル、ラマ、牧師、ラビなど)が、本当に自分の話を実践しているか、メッセージや生きた手本を通して本当に役立つアドバイスをしてくれているか、私たち自身の人生や世界をより良い場所にするために、見極めることができなくなります。このようなことは、私たちがフォローしている人が、実は自分のメッセージの通りに歩いていないことを盲目的に無視しない限り、実は問題ではありません。もし、このことに注意を払わないのであれば、私たちは実際に魅力にどっぷり浸かっていることになります。さらに悪いことに、私たちはメッセンジャーの許されてはならない行動、特にそれが偽善的であったり、矛盾していたり、時には虐待的であったりする場合でさえも、それを許してしまうかもしれません。(注:これは小さき弟子が特に陥りやすい問題で、ベイリーが教えている状態です)。
私たちは、自分自身の人生が混乱しているにもかかわらず、特別な存在であると感じたいのです。自分がのけ者にされたように感じたり、自分のことを認めてもらう代わりに馬鹿にされたりした人生から立ち直る最良の方法のひとつは、本当に特別な人たちと接触していると主張する特別なグループを見つけてその一員になることです。そうすることで、私たちはより一層、特別な存在であると感じることができるのです。瞬時に私たちは、メッセージや、本当にスピリチュアルになるために通過することを求めているすべての訓練、または特別なことを忘れることができます上昇した。今、私たちは自動的に特別な地位に躍り出ることができ、そこに到達するための鍛錬を忘れることができるのです。特別な存在であると主張することで、私たちは非常に特別な人たちと肩を並べたり、連絡を取っていると主張することもできます。
私たちは、他人の目から見て重要な存在になりたいと願っています。そして、私たちが高い精神的地位の人々に関連付けられていることを他の人に信じてもらうことよりも重要なものになるために良い方法は何ですか?実際、本当に特別な人々と接触していると主張することの副次的な利点は、それによって他人の目に私たちがより重要になり、その結果、その人は私たちに重要なグッズ(お金、喜び、権力など)を与えて、私たち自身をさらに良く感じさせ、人生をより楽にしてくれるかもしれないということなのです」
Who is Alice Bailey's Tibetan?