“学びの心”さえ忘れなければ、毎日、天国に住んでいるようなものです。一日の最後に学びを確認し、満足できたら、その日一日は天国に生きたことになります。そして、人生の最後に学びを自覚し、満足できたら、その一生を天国で生きたことになるのです。
“無事無難”とは、人生に何の災難も困難も起きない、ということではありません。そんな人生などあり得ません。たとえ災難や困難に見舞われても悩まない、苦しまない、ということが“無事”の意味です。そして、どんな災難や困難であってもそれを乗り越える、ということが“無難”の意味なのです。
“病気”も“老い”も“死”も単に肉体の変化に過ぎないのに、肉体にとらわれてつけられた人間界だけの呼び方なのです。肉体の変化に逆らうことに時間やお金を費やすのは無意味です。変化を変化として冷静に受け止めれば、心が穏やかになり、与えられた寿命を有効につかうことができるのです。
人生に目標や目的を持つことは大切です。でも、その実現にこだわりすぎると、緊張したり、萎縮してしまいます。むしろ、目標や目的をもたないで、雲の流れのように、人生に逆らわずに生きる生き方もあっていいのです。道徳や倫理に反しなければ、どんな生き方をしても苦しむことはないのですから。
何かを得ることによる喜びには、それを失うことの苦しみが影のように付きまとっています。希望には、失望が、勝利には敗北が、そして、成功には失敗が付きまとっているのです。人生、油断禁物です。
この世に確実なものは何一つありません。知識も情報も不確実です。生活環境も条件も不確実です。すべては不確実です。確実なことは、すべてが不確実ということです。だから、執着もこだわりも成り立ちません。執著やこだわりを捨てれば、不確実な人生においても自由で心安らかな心境で生きることができるのです。
国の内外を問わず、世俗社会はめまぐるしく変化しています。人が、「ああだ、こうだ」と騒ぎ立てても、自分の立場が変われば、考え方も、生き方もすっかり変わってしまうのです。だから、世俗のことに深刻になり過ぎないこと。時と場合に応じて、"見猿(ざる)、言わ猿、聞か猿”の態度も必要です。
人は、誉められたり、けなされたり、得をしたり、損をしたり、勝ったり、負けたりして、一生を生きていきます。悟っても悟らなくても、賢くても
愚かでも、みんな同じです。"悟った人””賢い人”はそれらに振り回されず、"悟らない人””愚かな人”は振り回される。それだけの違いです。
愚かでも、みんな同じです。"悟った人””賢い人”はそれらに振り回されず、"悟らない人””愚かな人”は振り回される。それだけの違いです。
あなたの目の前にあなたの大好きな食べ物と大嫌いな食べ物が同時に出されたとします。どちらか一つを食べていい、と言われたら、あなたは迷わず、好きな方を選ぶでしょう。もし、人が怒りや憎しみやねたみという感情を捨てようとしないで、いつまでも心に抱いているとしたら、それは嫌だ、嫌だと言いながら、当人は怒ることが好き、憎むことが好き、ねたむことが好き、ということになるのです。ほんとうに嫌だったら、そのような悪感情に気づいたら、さっさと捨てるべきです。