物事が
うまく運ばないとき、
その責任を
他人に
押し付けたところで、
自分の
ストレスが
増すばかりです。
なぜなら、
他人を
変えることは
できないからです。
それだったら、
自分の
責任として
自分の
できることから
処理したほうが、
身も
心も
ずっと
軽くなってきます。
物事が
うまく運ばないとき、
その責任を
他人に
押し付けたところで、
自分の
ストレスが
増すばかりです。
なぜなら、
他人を
変えることは
できないからです。
それだったら、
自分の
責任として
自分の
できることから
処理したほうが、
身も
心も
ずっと
軽くなってきます。
あなたが
見たもの、
聞いたもの、
触れたものは
すべて
一時的な
現象です。
そして、
見たこと、
聞いたこと、
触れたことによって
あなたの
心に
生ずる
どのような
思考も
記憶も
感情も
すべて
一時的な
現象なのです。
あなたの
外の世界に
あるもの、
あなたの
内の世界に
あるもの
すべてが、
一瞬で
過ぎ去ってしまう
現象です。
だから、
この世に
何一つ
執着できる
ものはない。
何一つ
心に
止めておく
必要はない。
それを
悟って
はじめて
心が
平安に
なるのです。
あなたは 自分より 優れていると 思う人や あなたが 信頼している人の 意見や 忠告に 従って 行動することも あるでしょう。 また、 他人に 頼らず、 自分の 良心や 自分の 判断に 従って 行動することも あります。 ただ、 どちらにしても 行動の 結果は 自分で 責任を 持つ。 それが、 最終的に 「自分を信ずる」 と、いうことです。
人が
怒ったり、
憎んだり、
妬んだりするのは、
自分に
執着し、
他人に
執着する
からです。
少しでも
執着から
離れ、
自分と
他人の
幸せを願う
行いを
心がければ
自然と
人格が
高まって
くるのです。
”無執着”
と
”慈しみ”
が
人間向上への
道筋です。
他人を
苦しめたり、
自分を
貶(おとし)めるような
道徳的な
悪を
続けている限り、
人間は
幸せに
なることは
できません。
不幸にならないために
少しでも
道徳的な
善を
積み上げる
努力が
必要です。
重病にかかった人が
手当てとして
薬を
飲むようなものです。
でも、
薬には
限界があります。
善を
なすだけでは、
生老病死の
苦しみから
逃れることは
できません。
最終的な
幸福を
実現するためには
「肉体は
自分のものである」
という
幻覚から
目覚めなければ
なりません。
この幻覚に
縛られている限り、
どんな
宗教に
すがっても
幸福は
実現できません。
人生、
何事においても
”最悪”を
想定し、
可能な限りの
”最善”の
準備を
心がけていれば、
困ることは
起こりません。
毎日、
安らかに
過ごすことが
できるでしょう。
家に
溜まった
ゴミは
すぐに
捨てなければ
なりません。
怒りや
慢心や
我欲も
心の
ゴミです。
そのまま
抱えていれば
自分が
汚れていく
だけです。
ゴミを
捨てるのに
理屈など
要りません。
さっさと
捨てたほうが
いいに
決まっています。
「○○が
欲しい」
「○○に
成りたい」
そうした
欲望が
度が過ぎると
執着となって
しまいます。
人間、
ムリを
したり、
ストレスに
苦しむのは
執着が
原因です。
”大きな夢”も
それが
執着に
なると、
幸せが
遠のいて
しまいます。
人の死は
突然に
やってきます。
だから、
いつも
心の準備が
必要です。
そのためには、
愛する人たち、
親しい人たちの
死に際の
様子を
一日一度
想像してみるのです。
それは
決して
暗く
悲観的な
行為では
ありません。
むしろ、
そうした人びとを
少しでも
思いやり、
大事にする
動機と
なるのです。
少しでも
優しい
自分に
なれるのです。
人間は
みんな
絶対に
変えることの
できない
宿命を
背負っています。
それは
だれでも
老いて、
病んで
死ぬことです。
だから、
どのように
老い、
どのように
病み、
どのように
死ぬか、
それが
命を運ぶこと、
すなわち
運命です。
幸せに
老いて、
幸せに
病んで、
心に迷い無く
死ぬことができたら
それが
人生の幸運なのです。