人生のセレモニー、その深い意味を知ることとなった。
以前、お葬儀の関係のオリジナル栞を作成するライターをやっていた私。
親しい人との別れは、皆寂しいものだ。
そして、振り返りつつその人となりを言葉に紡ぐことが、残された方々の心を癒すことにも繋がるのだ。
私はたくさんのお別れを見て、すぐそばでその声を聴いていたのだが、
もちろん仕事であるので、あまり感情を動かされていてはできない。
第三者の立場からの客観性と主観性のバランスを保って、一つの文章をまとめ上げるのが大切だ。
人間の奥深い感情を、汲み取ることを自然と身に着けたのかもしれない。
そして、私の話はお葬式ではなく、
「おかあさん卒業式」
からの巣症候群になって、壊れかけていく自分をどうしたらいいものかと途方に暮れていた。
丁度、夏休み期間で実家に帰ってきていて、昨日の夜一緒に回転寿司を食べに行った。
なんだか食欲もない私の一方で、息子は良く食べた!!
彼はとっても元気だ。
なぜに私だけがこんなになっているのか?
そして、ピン!!ときた。
息子は3月上旬にすべての受験が終わり、次の日に物件を探しに一緒に行った。
なんだか、すべてが嘘のようにことが進み、準備に追われてカレンダーが4月に替わってすぐに出ていったのだ。
私には心の準備もなにも出来ていなかったのだ。
息子は受験する時点で、イメージ化していたのかもしれない。
だが、私は自分の本心を伝えることができなかった。
「寂しい、離れたくない」
という思い。
最後まで、自分の心に蓋をして、見送ってしまったのが、潜在意識の一部に入り込んだのかもしれない。
そう!そして、息子に「お母さんの卒業式やって!」
と提案した。
誕生した日から赤ちゃん時代、幼児期を経て小学生、中学生ごろまでのたくさんある写真アルバムを
一緒に見ながら、その人生の歴史を息子と母は振り返った。
そして、A4のただの紙ではあるが、
「おかあさん卒業証書」とやらを書いたのだ。
○○のお母さんとして、命のすべてぐらいに捧げ、この上ない愛情で育て上げた功績を称え卒業を証明します。
と自分で書き上げ。
最後に「今までお母さんありがとう」と記した。
そして、息子自身の名前と日付を入れてもらった。
卒業式に流れる音楽を聴きながら、
一通り写真をみて、最後は三歳のときのバースデーブックを一緒に開いた。
「世界で一番大好きな○○、強くて優しい子に育ってね」と16年前に私が記した文字が浮かび上がる。
私は最初から号泣していたが、
息子もその言葉に号泣した。
そして、手作り感満載の卒業証書を息子が声に出して読んだ、
私が厳かに受け取った。
今まで自分の一部のように思っていて、分離不安がつらかったこと。
これからは、もう互いに大人としてそれぞれの人生を歩む時期が来たこと。
私は自分の人生と息子の人生とを重ね合わせながら生きてきたが、もうそれが良い意味で終わったことなどを話した。
そう、お母さんからの卒業式というセレモニーだった。
息子はもう自立していると言っていた。そもそも、私がそんな思いとは知らなかったのだろう。
やっと、一つの人生のステージを終えることができた気がした。
人生のセレモニーは、ただの儀式ではない、人間の感情的な側面を癒すのだ。
私はふだんは、けっこう合理的思考で息子もそうだけれど、
人間とはそうした面ばかりではないということ、感情の生き物であることも話した。
これからは、人生のセレモニーを一つひとつ、大事にしていきたい。