クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

グールドの新ウィーン楽派セミナー

2016-07-22 11:59:22 | グールド
クラシックを聴く人で、マーラーやR・シュトラウスは聴けるが、シェーンベルクら新ウィーン楽派の無調作品となるとサッパリという人は多いのではないだろうか?
もちろん私もその口である。
しかし食わず嫌いは良くない。ブルックナーも最初はわからなかったが、今や初稿を偏愛しているというオタクとなってしまった。
シェーンベルクの無調作品だって何かの拍子で好きになるかもしれない。そうすればそれだけ人生の楽しみが増えるというものだ。

グールドは1957年にソ連へ演奏旅行をした。後に公開演奏をやめてしまう人がソ連で演奏した北米初のピアニストであるのだから、まさに事実は小説よりも奇だ。
その折にモスクワ音楽院で新ウィーン楽派に関するセミナーを行った。
当時のソ連では新ウィーン楽派はほとんど知られておらず、というか、共産主義政権下では退廃芸術と決めつけられたせいかご法度だったらしい。
そのようなソ連の聴衆は、新ウィーン楽派理解度が私と似たようなものだろうから、グールドの演奏とお話しはちょうど良い手引きかもしれない。
さいわいその時の模様はハルモニア・ムンディからCDになって出ている。
私が持っているのは20年以上前に買ったLPであるが、今回それを引っ張り出して聴き直してみた。

最初の演奏 ベルクのピアノ・ソナタ作品1。(この前におそらくグールドの話があったと思われるがカットされている。)

この曲はわかる。抒情的で明確なソナタ形式(ここでは演奏していないが提示部の繰り返しまである。)なのでわかりやすい。おまけにこの曲はグールドの十八番で、この後ストックホルムで引いたライブ、正規録音、TV映像としばしば聴かされているので耳に馴染んでいる。

次はグールドのお話し。(超簡訳)
「シェーンベルクとベルクの初期無調作品は無形式で流動的でしたが、10年以内にすべての旋律をひとつの「超主題」と関連つける原則を確立しました。」
「次に私が弾くのはウェーベルンです。ウェーベルンはベルクに比べ色彩や楽器の音色に興味がありませんでした。最初の管弦楽作品パッサカリアにすでにその志向が表れています。」
ここでパッサカリアをピアノで弾き始める。おお、これはたしかにあのバッハのと同じパッサカリアだ。主題が繰り返されて盛り上がってきたところでグールドらしくあっさりヤメ。残念。
「これから弾く作品はベルクの30年後、1936年に作曲されたウェーベルン唯一のピアノのための作品で、3つの非常に深い楽章からなる変奏曲です。ウェーベルンの特徴ですが、クレッシェンドもディミヌエンドもありません。すべてが絶対的なピアノとフォルテだけです。・・・謝りますが、2年間この曲を練習していません。」(笑い)

演奏 ウェーベルン ピアノのための変奏曲 作品27

この曲は識者によると大変な名曲らしいが、やっぱりわからない。中間部だけは聴きおぼえがある。「OFF the Record, ON the Record」というグールドのテレビ・ドキュメンタリーで、シムコウ湖畔の別荘にフランツ・クレイマーというオッサンが訪ねてくる。オッサン曰く「ウェーベルンはシャイな人だった、その音楽もね。」これに対し"Is this shy music?"とやおらグールドが弾き始めるのがこれ。たしかにシャイというより過激。強烈な印象を受け、耳に残る。
なお、この後で”シャイな音楽はこれさ”と弾き始めるのがシューベルトの交響曲第5番。グールドの弾いたシューベルトは後にも先にもこれだけ。グールドは、シューベルトの繰り返しの多さに辟易していたがリヒテルの弾く最後のソナタに感動した(この時のモスクワで聴いたのだろうか?)、と述べているが結局シューベルトを弾かなかったのは残念である。

グールドのお話し。
「最後にこれら二人の成果をちょっとばかり統合した作品を弾きたいと思います。それはチェコの作曲家エルンスト・クシェネクのものです。彼の3番目のソナタの最初と最後の楽章を弾きます。」
(ここで会場がザワザワし、通訳とグールドが”クシェネク、クシェネク”とか連呼している。”今言ったの誰だ?”とか聴衆が言い合っていたのだろう。)
「この曲はウェーベルンの活発なメロディーとベルクの力強い和声を兼ね備えた20世紀最高のピアノ曲の一つだと思います。」

演奏 エルンスト・クシェネク ピアノ・ソナタ 第3番 作品62 より第1楽章と第4楽章

たしかにベルクの抒情性とウェーベルンの抽象性の中間路線という感じがするが、よくわからない。
グールドは1974年のクシェネク著作集Horizons Circled:Reflection on My Musicへの書評「エルンスト・・・なんとか氏」でもクシェネクを高く評価している。
クシェネクは”20年代、バウハウス式バロック主義、ついでジャズにも社会批評をまぶして手を出す、30年代 シェーンベルクの12音技法に改宗、40年代 独自の循環の原理によってそれを修正、50年代 マルチパラメーターのセリー主義、60年代 テープ技術の周辺を逍遥、近年 選択対偶然というポストセリーの矛盾に取り組む”という具合で、”生来の折衷主義者の行き過ぎた末の模倣行為のように見える。”
はい、たしかにそう見えます。
”しかし、実際にはそうではない。クシェネクは飽くことのない音楽的好奇心を持っており、外からの刺激に対して「何でも一度はやってみる」式の反応をする。”
からなのだそうだ。確かにバッハもモーツァルトも飽くことなき音楽的好奇心を持っていた。
グールドはクシェネクの人となりにも親しみを覚えていたようである。
”クシェネクはひと口に言って今も昔も学者であり紳士である。””寛容で、瞑想的で、非攻撃的なまれにみる人格”と最大級の賛辞を捧げている。
さらにクシェネクのこの曲を自分の最後の公開コンサートで弾いた、と書いているが、春秋社「グレン・グールド大研究」の宮澤淳一「バイオグラフィカル・スケッチ」によると正しくは最後から2番目のコンサートということである。せっかくのクシェネク賛美で「2番目の」では恰好がつかないので、ちょっと端折ったのであろう。

再びモスクワ「ありがとうございます。この手の音楽ばかりで皆様を退屈させてしまったのでは、と気がかりです。しかし、私はこれらにぞっこんで、ぜひとも皆様の前で弾きたかったのです。」(グールドの気持ちが伝わったのか、大きな拍手)
「強調したいのは、これらの音楽の原理はけっして新しいものではなく、少なくとも500年前からあるものです。ジョスカン・デ・プレらフランドル楽派により15世紀中期から後期にかけて最高点に到達したものです。」
「では最後に何かの終末たる音楽、バッハの「フーガの技法」より3つのフーガを弾きます。」

演奏 バッハ 「フーガの技法」より第1、4、2曲

感動的。出だしは再弱音の超スローテンポ。その後曲全体にまたがるような息の長いクレッシェンド。まるでマーラー10番第1楽章のようだ。「フーガの技法」のような抽象的な素材から強烈にエモーショナルな音楽が現れ出る。それを見つめるモスクワの聴衆の驚きが伝わってくる。第4曲、第2曲と続けて演奏されるが、初めからアダージョ―スケルツォ―アレグロと3楽章で作られたかのような緻密な構成が感じられ、晩年のゴルトベルクの演奏を予見させる。このような忘我の境地を思わせる陶酔感と綿密に計算されたような明晰性の不思議な合一こそグールド最大の魅力だと思う。
大きな拍手の後、おそらく何かやりとりがあり(ここはカット)、アンコール。

演奏 バッハ 「ゴルトベルク変奏曲」より第3、18、9、24、10、30変奏

カノンを中心とした演奏だが、実に生き生きとしている。
こういう演奏を聴くと、グールドがコンサートをドロップアウトしたのは実に惜しかった、と思わざるをえない。
グールドとしては、その場の聴衆受けを狙ったがまんのならない演奏として拒絶してしまうのかもしれないが・・・

結局、新ウィーン楽派を理解しようとしてバッハに感動して終わってしまった。次はウェーベルンのパッサカリアを管弦楽で聴いてみようか。





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