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戦艦大和五代目艦長有賀幸作海軍中将(戦死後に大佐)は 沈む艦と運命を共にしたという戦

2012年10月30日 | 日本人よ頑張ろう!
長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生れる。父作太郎は、旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。一年上の先輩に、中沢佑中将や、後に沖縄特攻で第2水雷戦隊共に戦った古村啓蔵がおり、作太郎は古村が海軍兵学校入学時の保証人でもあり、海軍兵学校に入る前から交流があった。
実家の平野屋金物店は有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが、父、次郎、さらに三男の正次、妹のふさへが相次いで病死したため、名義上家督を継ぎ、金物店店主となっている。なお実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。
1917年(大正6年)11月24日、海軍兵学校卒(45期、順位57/88)。同期には、空母「瑞鶴」、「大鳳」艦長を務めた菊池朝三、軍令部第一部長の富岡定俊、「大和」艦長で後に第2艦隊参謀長となる森下信衛、上記の古村啓蔵がいる。
初代神風型駆逐艦「水無月」(380トン)から経歴をスタートさせ、水雷戦隊の指揮官として経験を重ねた。1922年に戦艦「長門」の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあった。1923年大尉昇進、翌年1月27日、宮坂好子と結婚。10月に長男正幸が誕生した。12月、峯風型駆逐艦「秋風」の水雷長に就任し、川内型軽巡洋艦「神通」水雷長。この時美保関事件に遭遇し、水城圭次艦長の自決を経験した。1927年12月「那珂」水雷長、1928年6月7日長女良江誕生、12月10日球磨型軽巡洋艦「木曾」水雷長に転任。1929年11月、若竹型駆逐艦「夕顔」の艦長に任ぜられ、初めて船の総責任者となった。航海長は当時の有賀を見て「これが駆逐艦乗りか」と感嘆した。
1930年12月、有賀は若竹型駆逐艦「芙蓉」艦長に転じ、中国大陸沿岸警備任務についた。1932年、峯風型駆逐艦「太刀風」と「秋風」の艦長を兼務する。1933年11月、神風型駆逐艦「松風」艦長、1934年11月に新鋭の吹雪型駆逐艦「電」艦長となる。有賀はようやく第一線級戦力の艦長をまかされたのである。1935年10月、艦長勤務を離れ、鎮海警備府参謀を命じられた。翌年9月17日、次女公子が誕生する。12月、軽巡洋艦「川内」副長勤務。1938年12月、掃海艇6隻からなる第一掃海隊司令に任命され、日中戦争に加わった。掃海任務だけでなく、上陸支援や中国軍掃討任務もこなしたため、中国側から懸賞金をかけられ、その値段が徐々に上がっていったという一幕もある。
1939年11月、第二艦隊第二水雷戦隊第十一駆逐隊司令(「初雪」と「白雪」)司令となる。1940年11月、大佐に昇進。1941年6月18日、第四駆逐隊司令に任ぜられ、最新の陽炎型駆逐艦4隻(「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」)を指揮下においた。11月15日、有賀は遺書を書いた。好子が遺書を読むのは、1945年9月20日に戦死内報が届いた時である。
机上の理論より実戦での経験を大切にする当時としては数少ない軍人の一人であった。豪放大胆な性格で、戦上手な指揮官として部下からの信頼も厚い人物であった。
太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として近藤信竹海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し、マレー作戦を支援した。12月8日朝、「野分」に命じてノルウェー船を拿捕する。日本軍のシンガポール占領の後、ジャワ海に進出した。3月1日、有賀指揮下の「嵐」と「野分」は商船3隻(4000t、3000t、3000t)、油槽船2隻(1500t)を撃沈し、商船「ビントエーハン号」(1000t)を拿捕。さらに英国駆逐艦「ストロングホールド」、米砲艦「アッシュビル」を沈めた。3月4日、重巡洋艦「愛宕」と共同で豪州護衛艦「ヤーライ」、油槽船1隻を撃沈し、オランダ商船「チャーシローア」を拿捕した。一連の戦闘を「チラチャップ沖海戦」という。ミッドウェー海戦に参加。ミッドウェー海戦では、大破炎上した航空母艦「赤城」を指揮下の駆逐艦「野分」「嵐」の魚雷によって沈没処分するという悲劇を味わった。有賀は初めて撃った魚雷が「赤城」に対するものだったことを嘆き続けた。その後ソロモン方面の諸海戦に参加。10月26日の南太平洋海戦では 被弾した「翔鶴」から南雲忠一長官を迎え、一時的に中将旗を掲げた。1943年3月1日、重巡洋艦「鳥海」艦長となり、南方に進出する。米軍機から10回近く襲撃されたが、高射砲長との息のあった連携で「鳥海」は被弾しなかった。1944年4月21日、デング熱に罹患し内地へ帰還。水雷学校(横須賀)教頭を拝命する。しかし実戦畑を歩いてきた有賀にとっては机上の学問を教授しなければならない教頭の職は本意ではなかったらしい。
1944年(昭和19年)11月6日、「大和」艦長を内示される命ぜられる[19]。実際に着任したのは12月10日である。久しぶりの海上勤務である上に、帝国海軍の象徴・宝刀とも言える「大和」の艦長に補されたのが非常に嬉しい事であったらしく、海兵団にいた長男有賀正幸宛に、秘匿艦であり、本来ならば「ウ五五六」と暗号で記述するべきであるにも関わらず「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を書いた手紙を送っている。手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書いてあり、これを読んだ正幸は、有賀が死を覚悟したことを悟ったという。


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