安国寺恵瓊-関ヶ原に敗れた毛利家、秀吉の交渉人
信長の終末を予見
「信長之代(のぶながのだい)五年三年者(は)持可被持候(もたるべくそうろう)。明年辺者(あたりは)公家などに成(な)さるべく候かと見及申候(みおよびもうしそうろう)。左候(さそうらい)て後(のち)、高ころびにあおのけに転ばれ候(そうらわん)ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は吉川元春の側近である児玉三右衛門、山県越前守、井上春忠宛の書状に書いたこの文言でその名を後世に残した。 信長の世は3年や5年は保つし、来年は公家の位階を得もしようが、しかし、派手派手しくあおむけにひっくりかえるように見えます。そして秀吉はなかなかできる人物ではないかと考えております、という天正元年(1573)12月12日付の書状である。 この年の4月に武田信玄が没し、信長は8月に越前(福井県)の朝倉義景をつぶし