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「目次」と「あとがき」(『関東大震災を予知した二人の男』より)

2013年08月23日 | 新刊本紹介

「 あ と が き 」

 筆を執るまでに,1年以上の歳月が経っていた。
 平成23年(2011)3月11日金曜日,午後2時46分18秒。三陸沖で巨大地震が発生し,東日本に未曾有の被害をもたらした。
 これまで日本は,地震の前兆現象を捉えるために巨額の予算を投じて地殻岩石歪計やGPS(全地球測位システム)など,さまざまな観測機器を日本列島全域に設置し,世界でも例を見ない監視態勢を整えてきた。
 そうして迎えた23年3月11日。突然襲った大地震は,日本の地震予知態勢を根底から覆した。なぜなら,わが国観測史上最大の地震が発生したにもかかわらず,前兆すべりなどの顕著な前兆現象が認められなかったからだ。
 巨大地震の直前予知の失敗を受けて,日本の地震学者は,東日本大震災の翌年にイタリア中部を襲った地震後に起きた事件を大きな衝撃として受けとめた。その事件とは,イタリア中部地震が発生する直前に十分な検討をすることもなく,必要な警報を出すことを怠ったために犠牲者を増大させたとして,過失致死傷罪に問われたイタリアの地震学者らに有罪判決が下ったというものだ。
 その後,地震学者らで構成する内閣府中央防災会議の専門家部会と,日本地震学会はともに,「地震予知は困難」であるとする見解を相前後して発表。爾後,「地震予知」という言葉は極力使用しないことを申し合わせたのである。
 地震予知をおこなうことを前提に潤沢な研究費を得てきた当の地震学者が,地震予知の可能性をみずから否定することは,科学者としての責任を放棄し,国民の期待を裏切ることにほかならない。にもかかわらず,敢えて「地震予知は困難」とする見解を発表した理由は,さまざまな憶測を呼んだ。そのなかには,イタリアと同じように日本で告訴された場合に備え,有罪判決を回避するための裁判対策と見る向きもある。
 地震大国・日本に生まれ,地震の巣の上で生活する私たち日本人にとって,地震予知は国民的な悲願といっていい。地震予知という大きな目標に向かって研究を進めるのか,それとも断念するのか,地震学はいまその将来を左右する大きな岐路に立っている。
 ところで,3・11の3日前から三陸沖の大気中のラドン濃度が急激に上昇したことを,NASA(アメリカ航空宇宙局)の観測衛星が捉えていたことが近来明らかになった。震源域の岩盤が徐々に破壊されることによってラドンガスが発生したと考えられ,ラドン濃度の上昇は,大地震の顕著な前兆現象のひとつである可能性が指摘されている。
 こうした新たな前兆現象をいち早く捉え,来るべき地震予知に繋げる必要性が叫ばれつつある。そうした要請に応えるために,たとえば,大学や省庁や国の壁を越えて,地震予知の研究を推し進めることはできないだろうか。地球規模の地震観測網を構築し,地震予知の国際共同研究をおこなう。けだしそれは,地震学を創成したジョン・ミルンや大森房吉らが夢みた構想でもあった。
 震災による多くの犠牲を無にすることなく,地震予知の研究を未来に繋げるために,地震学の原点に立ち戻り,先人たちが想像した夢の軌跡を検証すべき時機が来ているのかも知れない。筆を執ったゆえんである。

 執筆するに当たって,じつに多くの方々のご協力をいただいた。
 わけても,東京大学地震研究所助教授を経て,日本地震学会会長や文部科学省地震調査委員会委員長などを歴任された津村建四朗氏には,一方ならぬお世話になった。
 明治大正期の地震観測の手法についてご教授いただいたのをはじめ,津村氏のご教示により,東京大学地震研究所が所蔵する世界で最初の地震学会誌『Transactions ofthe Seismological Society of Japan(日本地震学会欧文報告)』や,その後の日本の地震学を牽引した震災予防調査会の会報誌『震災予防調査会報告』にじかに触れ,ジョン・ミルン,大森房吉,今村明恒,寺田寅彦など,地震学の黎明期に活躍した先人たちの稀覯の論稿を読むことができたのは,著者にとって何より幸せだった。
 また,大森房吉ならびに今村明恒の孫弟子に当たる元北海道大学地震火山研究観測センター長の島村英紀氏にお会いし,東京大学地震学教室の学風や遺品に関する貴重なお話をお聞かせいただいた。
 一方,大森房吉の故郷・福井市にある旭公民館館長の藤井一夫氏のご尽力を得て,大森房吉の複数の後裔の方と直接連絡を取ることができた。
 さらに,今村明恒の家宅を探し訪ね,嫡孫となる今村英明氏のご厚意により,今村明恒が手ずから記した日記やノートなどを拝見する機会に恵まれた。
 筆を執ってから半年あまりが経ち,執筆が終盤にさしかかったころ,東京大学地震研究所を訪ね,広報アウトリーチ室の桑原央治氏の案内で地下一階にある地震観測室(現地震計展示室)を見学させていただいた。
〝地震観測室〟と墨書した白木の板が掲げられた観音開きのドアが開くと,リノリウムの床の中央に鉄筋コンクリート製の堅牢な台座があり,その上にさまざまな種類の地震計がガラスケースに収められ,陳列されていた。
 それらの地震計を見送りながら,私は桑原氏のあとを追うようにして部屋の奥に設えられた小さな部屋に入った。そこには,私の背丈よりも高く大きな地震計が据えつけられていた。
 1立方メートルはある鈍色の重厚な台座の上に,さらに1メートルほどの高さの鋼鉄製の支柱が立ち,それを支点にして振子が地面に水平に伸びている。明治31年(1898)に大森房吉が製作した大森式地震計である。
 水平振子の先端の描針に目を凝らすと,描針の先は,ゆっくりと回転するドラムの表面にわずかに接しながら,漆黒の記録紙の上に白髪のような細い線を描き出していた。
 百年以上も前から今日にいたるまで,東京大学の地下の地震観測室で営々と地球の鼓動を観測しつづけている姿を目の当たりにし,思わず肌が粟立った。
              *
 その後ほどなくして脱稿し,関東大震災から90年に当たる今年,上梓することとなった。
 地震学の進展と地震予知の将来のために,この本がいささかでもお役に立つことができれば幸いである。

   平成25年夏 南三陸町にて                       上山 明博


                 (『関東大震災を予知した二人の男 ─ 大森房吉と今村明恒』

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