私はお芝居が好きだ。
短大生の頃は、弱小演劇部と一般の吹奏楽団とをかけもちしながら、そして勉強もしながら(高校なみの時間割だった・・・(TmT)アタフタと毎日を過ごしていた。
今思えば、保育の仕事に演技力は必要だと思う。
子供と一緒にファンタジーの世界で遊ぶという保育実践なわけだから、当然演技力は求められる。
他の保育理論においても同じなのではないかなぁ。
「ごっこ遊び」は正に演劇の要素が入っている遊びではないだろうか。
いや、それはいいのだけど。
私が生きてきた中で最も影響を受けた人生の師ともいえる人が、やはり演劇狂で、自分で演技もするのだが、特に前衛演劇が大好きでそのために、富山まで演劇祭に行くほどなのだ。
(知る人ぞ知る、富山・・・)
そして、自分が良いと思っているものを理解できない人は、なんとゆーか・・・「それだけの感性の人間」とみなしてしまうというクセを持っている。
私はかわいがってもらったのだが、前衛演劇だけはどうしても理解できない。
単純だから、起承転結がはっきりして、ストレートで、最後はハッピーエンドになるようなわかりやすい展開が好きなのだ。
人気急上昇の芝居も好き。
ミーハーと言われても、好きなものは好きなのだ。
でもその人はそれをわかってくれない。
「本物の前衛を見てごらん。貴女なら絶対に理解できるはず」
・・・いやあの・・・みたんです。
あなたが好きな芝居。
見た上でダメって思ったんです。
私が前衛を理解できないってことが理解できない。
・・・なんで?
人それぞれ好きなものは違うだろう。
どんなものに惹かれ、どんなものを拒絶するのか、それは十人十色だ。
なぜそれをわかってくれないんだろう。
なぜ自分の色に染め上げようとするんだろう。
いろいろな人を受け入れ、指導していく立場になければならないのに、突如として入り口が狭くなっていく。
その急激な差を見るのがすごく辛い。
私はその人の前で、正直な自分でありたい。
その人の機嫌を取るために、思ってもないことを言うなんて、そんなことは絶対にしたくない。
いつかわかってもらえる時がくるんだろうか。
それとも、今度は私の方がそんなその人を受け入れるしかないのだろうか。
今はまだ、
その人の前で「前衛は苦手です」と言い続けている。
例えば、演劇の場合。
短大生の頃は、弱小演劇部と一般の吹奏楽団とをかけもちしながら、そして勉強もしながら(高校なみの時間割だった・・・(TmT)アタフタと毎日を過ごしていた。
今思えば、保育の仕事に演技力は必要だと思う。
子供と一緒にファンタジーの世界で遊ぶという保育実践なわけだから、当然演技力は求められる。
他の保育理論においても同じなのではないかなぁ。
「ごっこ遊び」は正に演劇の要素が入っている遊びではないだろうか。
いや、それはいいのだけど。
私が生きてきた中で最も影響を受けた人生の師ともいえる人が、やはり演劇狂で、自分で演技もするのだが、特に前衛演劇が大好きでそのために、富山まで演劇祭に行くほどなのだ。
(知る人ぞ知る、富山・・・)
そして、自分が良いと思っているものを理解できない人は、なんとゆーか・・・「それだけの感性の人間」とみなしてしまうというクセを持っている。
私はかわいがってもらったのだが、前衛演劇だけはどうしても理解できない。
単純だから、起承転結がはっきりして、ストレートで、最後はハッピーエンドになるようなわかりやすい展開が好きなのだ。
人気急上昇の芝居も好き。
ミーハーと言われても、好きなものは好きなのだ。
でもその人はそれをわかってくれない。
「本物の前衛を見てごらん。貴女なら絶対に理解できるはず」
・・・いやあの・・・みたんです。
あなたが好きな芝居。
見た上でダメって思ったんです。
私が前衛を理解できないってことが理解できない。
・・・なんで?
人それぞれ好きなものは違うだろう。
どんなものに惹かれ、どんなものを拒絶するのか、それは十人十色だ。
なぜそれをわかってくれないんだろう。
なぜ自分の色に染め上げようとするんだろう。
いろいろな人を受け入れ、指導していく立場になければならないのに、突如として入り口が狭くなっていく。
その急激な差を見るのがすごく辛い。
私はその人の前で、正直な自分でありたい。
その人の機嫌を取るために、思ってもないことを言うなんて、そんなことは絶対にしたくない。
いつかわかってもらえる時がくるんだろうか。
それとも、今度は私の方がそんなその人を受け入れるしかないのだろうか。
今はまだ、
その人の前で「前衛は苦手です」と言い続けている。
例えば、演劇の場合。