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菅総理の「最終的には生活保護」 自分史から「葬祭扶助で父の葬儀」

2021年02月07日 | 管理人のこと

「最終的には生活保護」答弁 炎上・反発の底に潜む問題

菅総理の「最終的には」とは、自分でまず頑張りなさいが「自助」で、第三親等の親戚縁者に援助してもらいなさいが「共助」、自家用車や指輪は贅沢品、家屋敷も処分してから福祉事務所窓口に来なさいが「公助」である。生活保護制度(生活扶助・住宅扶助・医療扶助・教育扶助・葬祭扶助)

管理人の父は1958(昭和28)年8月にくも膜下出血によって杉並病院で47歳の時に亡くなったが、母は39歳、12歳、10歳の妹と管理人は16歳だった。父は家でぶらぶらして、母が阿佐ヶ谷駅前の不動産会社で働いた日給から、父の酒代を引いたお金で、うどん玉にソースをかけて八百屋で一番安いもやしを炒めておかずにした文字通り「赤貧」の「自助」生活だった。偶々自宅前に民生委員が住んでいたので生活保護の「葬祭扶助」と杉並病院の「医療扶助」で「公助」の申請をした。

金沢市長谷川本家の三男だったので東京には菩提寺は無かったが、家財道具を引き取ってくれた荻窪駅前の古道具店店主が「妹が尼さんだけど良ければお経を上げてもらえる」と言われたのでお願いをした。新宿区新宿6丁目にある「西光庵」の庵主北川教全尼と妹の尼に読経して頂いた。幸いにも西光庵は尾張徳川家第14・17代当主徳川義勝の墓がある由緒ある尼寺で、父の墓もつくらせて頂いた。

父の葬儀に参列した親戚。(管理人と妹以外は全て鬼籍の人である。)

1975年勲五等瑞宝章を受章された北川教全尼(西光庵開山二百史より)

母は心労から精神病となり東京武蔵野病院に入院、上の妹は母方の祖父に、下の妹は母方の伯父に、管理人は父方の伯父に引き取られて生活をした。夫々に貧しかった親戚からの「共助」であった。

34歳で日本共産党新宿議会議員になってからは、当時の「赤貧の生活」が活動の原点となり、7期28年間「公助」である新宿区福祉行政に全力で取り組んできた。

杉並区井荻1丁目(現善福寺1丁目)の自宅。(父は荻窪の不動産会社に勤務していたが、裕福な生活だった。)

1950(昭和25)年に独立して杉並区天沼1丁目で「長谷川商事不動産部」を始めたが、不動産売買の手付金を使うなど直ぐに躓き、夜逃げ同然に武蔵野市吉祥寺東3丁目の水道も無いぼろ屋に引っ越した。

「七転び八起きの人生」波乱万丈のスタートである。

<追記>

管理人は翌年の統一地方選挙の予定候補者となるために、1970年9月末日に足掛け10年勤務した銀座二丁目の田中茂商事(株)を退社した。

翌年1月7日に、西光庵が運営している「西光保育園」(現在は廃園)で東京土建労働組合新宿支部余丁町分会の新年会に出席した。候補者活動の第一歩が西光庵とは何かの縁を感じるものがあった。

(了)

 

 

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