葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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防衛省「市ヶ谷記念館」の未来

2011年08月13日 | 歴史探訪<市ヶ谷台・防衛省・東京裁判>

 第15回 戦争遺跡保存全国ネットワークのシンポジウム 神奈川県横浜大会が2011年8月5~7日まで慶應義塾大学日吉キャンパス内で開かれた。防衛省市ヶ谷記念館や旧陸軍大本営地下壕を研究されている春日恒男氏が分科会でレポート発言をした。転載を許諾されたのでエントリーしたい。そして、管理人が撮影した防衛省市ヶ谷台ツアーの写真を文末にアップする。

第15回 戦争遺跡保存全国ネットワークシンポジウム 神奈川県横浜大会
                              第3分科会レポート

                          題目:「市ヶ谷記念館」の未来
                                                                               
                                                発表者:春日恒男(文化資源学会

1. はじめに
 「市ヶ谷記念館」とは、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館の一部を同駐屯地西端(現在の防衛省庁舎B棟西側)に移設復元した建物である(1998(平成10)年10月に完成)。この建物は大講堂等の四施設を選別し、再構成したもので、「1号館」の約十六分の一に当たる。なお、「1号館」とは、1937(昭和12)年6月、陸軍士官学校本部として建設され、1941年から敗戦まで大本営陸軍部等として使用された建物である。敗戦後の1946年、ここで極東国際軍事裁判所法廷(以下、東京裁判法廷)が開設され、1960~94年まで陸上自衛隊東部方面総監部、各自衛隊幹部学校等として使用された。

2. 成立の経緯
  同記念館の成立には「市ヶ谷台1号館保存運動」が深く関与している。1987年、防衛庁(当時、六本木に所在)の市ヶ谷移転を機に「1号館」取り壊しが決定する。1991年、TV報道を契機に「市ヶ谷台1号館の保存を求める会」が保存運動を起こした。1992年、この動きに板垣正(自民党)、翫(いとう)正敏(社会党)聴濤(きくなみ)弘(共産党)の国会議員が協力し、超党派の保存運動へと発展する。1993年11月、参院内閣委の審議の結果、時の防衛庁長官が再検討を決断し、防衛庁は取り壊しから「一部保存」に一転した。しかし、翌1994年1月、参院本会議が全会一致で「保存に関する請願書」採択したにもかかわらず、防衛庁は「全面保存」を拒否する。その後も保存運動側は裁判やデモ等の行動に訴えるが、ついに「全面保存」は実現せず、現在の「市ヶ谷記念館」が誕生した。

3. 活用案
  保存運動側は、「一部保存」決定後も「1号館」を「昭和史記念館(仮称)」という<歴史博物館>として活用する案を提起していた。これは「1号館」が東京裁判の法廷として使用されたという歴史が前提となっている。さらに保存運動内部では、その展示内容として、先の大戦に対する肯定・否定の両論を併記し、その評価は来館者各自の判断に委ねるという案すら議論されていた。もちろん、この案には歴史認識で対立する左右両派が大同団結するための妥協という側面もあったことは否めない。しかし、同時に、両者が互いの歴史認識を冷静に議論した点は注目してよい。21世紀になった今日でも、日本は自国の過去に対してどのような認識を持っているかを、明確に示し得ていないといわれる。そして、そのことは、日本人それぞれが先の大戦をどう考え、総括しているかという問題と深くかかわっている。この「1号館」の活用案は、日本の過去が裁かれた場所そのものを<歴史博物館>にすることをめざしていた。もし、この<歴史博物館>が実現していたら、日本人自らが自国の過去と正面から向き合う大きな契機となっていたかもしれない。

4. 現状と提案
  現在、同記念館は、防衛省により一般公開されている。しかし、その展示には保存の経緯や保存運動への言及もなく、もちろん保存運動が提起した活用案はまったく反映されていない。しかも以下の改善策(私案)にあるように東京裁判に関する展示も貧弱極まりない。極言すれば、防衛省当局は<戦争遺跡>としての同記念館の重要性を意図的に抹殺していると思わざるを得ない現状である。2008年以来、元保存運動関係者有志から同記念館を「極東国際軍事裁判記念館」と改称し、東京裁判関係資料を中心に展示せよという声もあがっている。なぜ「1号館」の一部が保存されたのか、その中でどのような「活用案」が提起されたのか。もう一度その原点に立ち返るべきではないだろうか。

                      付記:「市ヶ谷記念館」改善策(私案)

1)東京裁判の裁判官、検察官、弁護人、被告人の肖像写真とそのプロフィールを館内に展示すること。

2)「ポツダム宣言」全文、「極東国際軍事裁判所条例(憲章)」全文を始めとして東京裁判の経過を図示し、その中で検察官、弁護人、被告人各々の主張、裁判官の判決を館内に展示すること。

3)東京裁判に関する内外の公刊資料を収集し、館内に展示すること。

4)東京裁判に関する映像資料(記録映像)を館内で上映すること。

5)「市ヶ谷記念館」設立の由来に「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願採択の国会決議」(平成6年1月)を明記すること。

6)土曜・日曜の公開を検討すること。
                                                                            以上

春日恒男氏より送信された当時の請願文書

1994年参院本会議請願採択

1994(平成6)年1月28日、参議院本会議は、「防衛庁市ケ谷台一号館の保存に関する請願(第五号外五件)」を採択し、即日、内閣に送付した。なお、第5号は板垣正議員、外五件(第20号、第128号、第161号、第215号、第303号)は翫正敏議員の紹介であり、すべて同文である。

                    防衛庁市ケ谷台1号館の保存に関する請願

1.請願の趣旨
  防衛庁市ヶ谷駐屯地の「市ヶ谷台1号館」を保存するための必要な措置を取ること。

2.請願理由
  「市ヶ谷台1号館」には、さきの大戦においては、大本営、参謀本部、陸軍省がおかれ、戦後はその大講堂において「極東国際軍事裁判」が行われた。我が国の歴史が刻み込まれ、この「市ヶ谷1号館」は、重要な建造物として保存すべきである。

防衛省正門遠景

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旧陸軍大本営正門

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市ヶ谷記念館に展示されてる正門の看板

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市ヶ谷台ツアー(参加者にコンパニオンが防衛省全体を説明をしている)

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江戸時代の市谷本村町尾張徳川家上屋敷ジオラマ(記念館内)

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旧陸軍士官学校一号館時計台とジオラマ

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時計台にあった陸軍の徽章

陸上自衛隊制帽の徽章としても、現在そのまま使用していると思われます。

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講堂二階から正面玉座(天皇の席)を見る

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講堂内の壁に掲示されている東京裁判で使われた世界地図と説明文

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元文部大臣だった森山真弓女史が東京裁判の時に通訳だった写真

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講堂内には軍服や士官学校教科書など多数の史資料が展示されている。

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新宿平和委員会が作成した新宿平和マップ

新宿平和委員会は港区六本木から防衛庁が新宿区市谷本村町に移転することに反対してきたが、移転工事が強行されたので、一号館保存と平和公園建設の国会請願運動を行ってきた。

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