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靖国神社秋季例大祭レポート(其の三)

2020年10月21日 | 靖国神社日誌

遊就館展示室最後のオープンスペースに特別展示の「作曲家・古関裕而と英霊に親しまれた歌」を見学しました。

靖国神社監修・近代出版社刊「オフィシャルガイドブック ようこそ靖國神社へ」に「歌い継がれる靖國神社」があります。「東京だョおっ母さん」、「メイ子チャンと社頭の対面」、「九段の誉」、「九段の母」、「東京見物」を唄った歌手と歌詞が記載されています。管理人が作成している「ガイドブック」には「九段の母」、「軍国の母」、「雨の九段坂」の歌詞を掲載しています。特に「軍国の母」が“白木の柩(はこ)に入ったらお前を褒めてやる”と恐い母になったのが、戦後の「雨の九段坂」では“母は嘘をついた”と告白する母の姿を説明しています。

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 軍国の母 (昭和12年発売)
 作詩・島田磐也 作曲・古賀政男
 歌手・美ち奴

1 こころ置きなく 祖国(くに)のため
  名誉の戦死 頼むぞと
  泪も見せず 励まして
  我が子を送る 朝の駅

2 散れよ若木の さくら花
  男と生まれ 戦場に
  銃剣執るのも 大君(きみ)ため
  日本男子の 本懐ぞ

3 生きて還ると 思うなよ
  白木の柩(はこ)が 届いたら
  出かした我が子 あっぱれと
  お前を母は 褒めてやる

4 強く雄々しく 軍国の
  銃後を護る 母じゃもの
  女の身とて 伝統の
  忠義の二字に 変りゃせぬ
  忠義の二字に 変りゃせぬ

  雨の九段坂(昭和36年)

作詩・矢野亮 作曲・佐伯としを
歌手・三橋三智也
  
1 あえぐ洋傘(こうもり) かしげて仰ぐ
  雨に煙った 大鳥居
  母は来ました やっと来ました
  可愛いお前が 住むお社へ
  一目なりとも 逢いたさに


2 濡れた玉砂り 踏みしめながら
  どこか空似の 人が行く
  どうせ帰らぬ 愚痴と知りつつ
  生きていたなら あの年頃と
  老の泪が 先に立つ


3 両手合わせて ぬかずく背に
  ほろりまつわる 花吹雪
  せがれ許せよ よくぞ死んだと
  ほめにゃならぬが 切ない嘘と
  かくし切れない この母を 

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小説家小林多喜二は築地警察署で拷問死させられ、川柳作家鶴彬は野方警察署で赤痢に罹患されて病死させられ、宮本顕治は網走刑務所に収監され、そして、作家も画家も作曲家も大政翼賛会に組織された状況の中で、義弟が特高の拷問にあっているにも係わらず、古関裕而も軍歌を積極的に作曲しました。敗戦になってから、NHK朝ドラ「エール」の中で「譜面をみるのが恐い」という台詞があったように、自分が作曲した軍歌が大東亜戦争(太平洋戦争)に国民を戦意高揚に駆り立てた自己嫌悪に陥ったと考えられます。それでも菊田一夫のラジオドラマ主題歌「とんがり帽子」(鐘の鳴る丘)を作曲します。小学校5年生だった管理人も毎日この放送を聴いていましたので、巌金四郎のナレーションが記憶に残っています。そして主題歌を歌った川田正子と孝子が、作曲家海沼実と一緒に杉並区立桃井第四小学校の校庭で「みかんの花咲く丘」などを唄ってくれました。

町会、地区会、部落会、婦人会から村八分にされたら、こうなるという恐ろしい当時の状況を描いた実話に基づく散文詩をご紹介します。

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 竹矢来  京 土竜 「しんぶん赤旗」1989年2月4日付「読者の文芸」に初出

  岡山県上房郡 五月の山村に
  時ならぬエンジン音が谺(こだま)した
  運転するのは憲兵下士官
  サイドカーには憲兵大尉
  行き先は村役場

  威丈高に怒鳴る大尉の前に
  村長と徴兵係とが土下座していた
  --- 貴様ラッ!責任ヲドウ取ルカッ!
  老村長の額から首筋に脂汗が浮き
  徴兵係は断末魔のように痙(けい)攣(れん)した

  大尉は二人を案内に一軒の家に入った
  ---川上総一ノ父親ハ貴様カ コノ 国賊メガッ!

  父にも母にも祖父にも
  なんのことか解らなかった
  やっと理解できた時
  三人はその場に崩れた
  総一は入隊後一カ月で脱走した
  聯(れん)隊(たい)捜索の三日を過ぎ
  事件は憲兵隊に移された
  憲兵の捜査網は二日目に彼を追い詰めた
  断崖から身を躍らせて総一は自殺した

  勝ち誇った憲兵大尉が全員を睨み回して怒鳴った
  --- 貴様ラ ドウ始末シテ天皇陛下ニオ詫ビスルカッ!
  不安気に覗き込む村人を
  ジロッと睨んだ大尉が一喝した
  ---貴様ラモ同罪ダッ!
  戦慄は村中を突き抜けて走った

  翌朝 青年団総出の作業が始まった
  裏山から伐り出された孟宗竹で
  家の周囲に竹矢来が組まれた
  その外側に掛けられた大きな木札には
  墨(ぼつ)痕(こん)鮮やかに

  国賊の家

  ---あの子に罪ゃ無ぇ 兵隊にゃ向かん 
  優しい子に育ててしもた
  ウチが悪かったんジャ
  母親の頬を涙が濡らした
  ---わしゃ長生きし過ぎた 
  戦争せぇおこらにゃ 
  乙種の男まで 兵隊に取られるこたぁなかった
  日露戦争に参加した祖父が歎いた

  ---これじゃ学校に行けんガナ
  当惑する弟の昭二に
  母は答えられなかった
  ---友達も迎えに来るケン
  父親が呻くように言った
  ---お前にゃもう 学校も友達も無ぇ 
  ワシらにゃ 村も国も無うなった
  納得しない昭二が竹矢来に近づいとき
  昨日までの親友が投げる石(いし)礫(つぶて)が飛んだ
  ---国賊の子!!
  女の先生が 顔を伏せて去った

  村役場で歓待を受けていた大尉は
  竹矢来の完成報告に満足した
  ---ヨシ 帰ルゾ 
  オ前ラ田舎者ハ知ルマイカラ 
  オレガ書イトイテヤッタ
  アトハ 本人ノ署名ダケジャ
  彼は一枚の便箋を渡して引き揚げた
  大尉の残した便箋は
  村長を蒼白な石像に変えた
  石像は夜更けに 竹矢来を訪れた

  三日後 一家の死が確認された
  昭二少年の首には 母の愛の正(しよう)絹(けん)の帯揚げ
  梁(はり)に下がった大人三人の中央は父親
  大きく見開かれたままの彼の眼は
  欄(らん)間(ま)に掛けられた
  天皇・皇后の写真を凝視していた

  足元に置かれた 便箋の遺書には
  「不忠ノ子ヲ育テマシタ罪 一家一族ノ死ヲ以ッテ 
  天皇陛下ニお詫ビ申シ上ゲマス」

  村長は戸籍謄本を焼却処分した
  村には 不忠の非国民はいなかった

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(続く)

 

 

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