葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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軍都新宿の戦跡を歩く(3)

2007年01月17日 | 歴史探訪<軍都新宿・市谷刑務所>

新宿区内には徳川家以外にも武家屋敷が多くありました。矢来町の小浜藩主酒井忠勝の屋敷、信濃町の永井家などみな広大な屋敷地です。しかし、まず尾張徳川家の屋敷地を軍関係にしたのは、冒頭に記述したとおりです。しかし、また、官軍の母体となった陸軍の幹部は、同じ理由からその教育諸機関を尾張家屋敷地に置いたと思われます。 

新宿区は、陸軍関係の諸学校が多く設置されていたのが新宿区の教育上の特色の一つと言えます。東京には13の陸軍省教育総監部管轄の学校がありましたが、その内の8校が区内に置かれていました。(他区にあった学校は陸軍大学校、獣医学校、憲兵練習所、騎兵実施学校等である)

市ヶ谷を中心に陸軍士官学校、陸軍経理学校(河田町)、陸軍砲工学校(若松町、のちの科学学校)があり、戸山町には陸軍戸山学校、陸軍中央幼年学校、東京地方幼年学校、陸軍軍医学校及び陸軍軍楽学校、そして陸軍第一病院もありました。

Nenpyou7 Nenpyou6 画像は経理学校跡に残る煉瓦塀と境界標石

このように、多くの軍関係諸学校が新宿区内に置かれた理由は、広い大名屋敷の土地を利用するのに好都合だったこと、戸山ヶ原が近くにあり、軍の演習等に便利なこと、防衛上重要であること、また交通至便の地であることだと考えられます。陸軍士官学校が尾州徳川候上屋敷跡に、陸軍戸山学校が同じく徳川家の戸山山荘跡に設置されたのがその好例です。

 

戸山山荘は起伏のある台地で、しかも庭園の池を掘った土を盛り上げたのが「箱根山」と呼ばれている人工の丘です。箱根山は旧市内で一番標高の高い場所で海抜44.1メートルです。因みに台地で高いのは余丁町36メートル。市谷本村町(現防衛省)は33メートル。港区愛宕山は26メートルです。

Nenpyou9 軍医学校跡から発見された人骨の一つです。このことについては後日アップします。
 


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