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薬王寺町会祭礼の写真を寄贈しました 其の一

2023年09月27日 | 新宿日誌

写真を整理していますが、市谷薬王寺町会祭礼等の写真をアルバムに貼って町会の記録として保存するように町会長に寄贈しました。

市谷薬王寺町誌によると神輿は大正九年(1920年)頃に造られました。

 大正九年ごろ、若衆たちから御輿を作るよう要望が出た。役員たちによって決定、早速深川八幡の御輿を見学した。倉庫にあった三十八御輿のうち、総ケヤキ白木彫り八棟御輿で最も大きい深川蛤町の御輿の形式にすることで役員の意見が一致して注文された。 (注:深川蛤町の御輿は、戦災で焼失したので当町会の八棟御輿は貴重な有形文化財となるでしょう。20年前に浅草宮本卯之助で修繕しています。)
 そして、十一年八月に待望の御輿(八棟御輿で重さ一三〇〇キロ、若者六十人でかつぐ)ができた。 それで、現在のイヌイストアーの所で引取り式を盛大に行った。御輿を飾り、手品・落語・歌謡などを出し物にし、夜店は夜中一時ごろまで開いて賑った。御輿は、 中内氏が土地十坪を町会に寄付されたのでそこに倉庫を造って収納された。 
 十二年九月一日の関東大震災では、町内は何の被害もなかったので、それは神輿の加護があったからと、町民一同から尊崇されたものである。

(中略)薬王寺町の神輿は、前にも述べたが大正十年八月、町の総意で造られたもので、都内には類を見ない立派なものである。ところが、市谷八幡の宮神輿は二十年五月二十五日の大空襲で焼失したので、町会は四十七年七月に町の神輿を宮神輿として献納した。 
 その後、市谷八幡では茶の木稲荷の復興新築以来、財政的な不祥事が起き、町で献納した貴重な財産である神輿もその渦中に巻き込まれる心配が起きて来た。(注:境内地の一部に市谷八幡児童遊園が造られていたが、その部分も売却することになり、都市計画「公園緑地」指定を外すよう神社側から新宿区に要望があった。新宿区議会も指定解除に反対したので、二階建ての駿台予備校市谷校舎が建設された。) 
 町の多くの有志者はそれを憂慮し、早急に町内の手で護持するのが最善の策と考えられ、神社及び氏子総代とも相談の結果、町への返還が円満に了解された。 
 しかし、それを引き取り保管するのは、町会という組織よりも、有志者達で「薬王寺町神輿保存会」を設立して当たるのが最良の方法ということになり、昭和五十一年十月五日、町内有志十四人が相集って規約をつくり、保存会が設立され、会長に中島象一郎が選出された。 
 神輿受け入れの組織ができても、その保存庫建設地の目途が立たず苦慮し、一時町内在住者の工場倉庫に引き取り保管することになった。これを聞いた蓮秀寺住職田辺寿昭は、檀家総代と相計り、境内の一隅約六坪の土地を無償で貸与下さることになった。 
 さらにまた、町内在住の鈴木聡男を始め建設関係業者である谷正太郎・畠山幸之助・羽太隆吉・尾崎勇、以上の方々の献身的な奉仕と、町会員各位の御理解と多額の浄財の御寄付によって、五十二年八月に神輿庫が完成し.保存されることになった。 

ホームページ「薬王寺ねっと

(続く)

 

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