【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 民族の形成(6) 「現代人」は渡来7対縄文3
2008.6.23 08:25
前回、関東地方の人々で縄文~現代までの形質変化をみた。他の地方ではどうだったのだろうか。
北海道文教大の百々幸雄教授は今年、北部九州と関東、東北人の時代による変化を調査した結果をまとめた。比較したのは、頭骨の形態小変異のパターンだ。
図1は、各地方の古墳・江戸両時代の集団について、形態小変異のパターンが東日本の縄文人とどの程度異なるのかを統計的にみたもの。縄文的特徴が色濃いとされる現代の北海道アイヌも比較の対象に加えた。比較に用いたのは、縄文人と弥生時代以降の本土日本人の差が顕著に示される6つの部位(項目)の形態小変異の出現頻度。グラフの棒が長い集団ほど縄文人と形態小変異のパターンが異なる度合いが大きく、渡来系の遺伝的影響が色濃いことを示している。
それによると、古墳時代の集団は、東北、関東、北部九州の順に東日本縄文人との異なりが大きくなる。弥生時代に大陸からやってきた渡来人やその子孫集団が、最初に住み着いて人口を増やした北部九州から東へと拡散していった様子が分かる。
前回みた松村博文・札幌医大准教授の歯の研究では、古墳時代の東北集団は分析対象が13体(渡来系が11体、2体が縄文系)と少なかったが、近年に出土例が増え、百々教授の研究では宮城、福島両県の遺跡の32体を調査。南東北地方には、この時代に渡来系の影響が及んでいたことがほぼ確実になった。渡来系が優勢だった西日本起源の古墳の北限が宮城県北部~山形県北部のラインであることは「アイヌと縄文人」で紹介したが、古墳は渡来系集団の移住とともにこの地に広まったようだ。
東北地方には、飛鳥、奈良時代から平安時代中ころにかけて、朝廷の支配権外にあった「蝦夷(えみし)」がいた。彼らをめぐっては、「和人」なのか「アイヌの先祖と同集団」なのかという論争が続いてきた。
残念ながら、彼らの中心的居住域だった北部東北地方からは古墳時代の人骨が見つかっておらず、今回の百々教授の調査対象にも含まれていない。しかし、百々教授は、古墳時代の南部東北集団が関東や九州の集団と比べ縄文系(アイヌ含む)集団に遺伝的に相当程度近く、江戸時代も北部東北集団は関東集団より縄文系に近いという分析結果から、次のように推測する。
「渡来系遺伝子が『西から東へ』と拡散したこと、奈良時代以降の関東などからの人々の移住を経た江戸時代でも北部東北集団が縄文系に近いことを考えると、蝦夷である古代北部東北集団は縄文系遺伝子がかなり優勢だったはず。その後稲作などを取り入れたことで本土日本人社会の一員となり、アイヌ民族となる道は歩まなかった」
渡来人やその遺伝的影響を受けた集団を和人、アイヌの先祖を在来縄文系集団と考えると、蝦夷の系統論争に影響を与えそうだ。
≪拡散の「完成」≫
現代になると、東北地方の集団の形態小変異のパターンは関東や九州とほぼ同じになる。「在来縄文系と混血しながらの渡来系遺伝子の拡散は、本土では明治以降に完成して本土人がほぼ均一化した」と百々教授。
松村准教授が現代関東人の歯を分析したところ、分析対象者数の75%が渡来系、25%が縄文系だった。「混血が進んだ現代では遺伝的に純粋な縄文系や渡来系という日本人はいない。個体の比率が混血率を示すとはいえないが、ある程度反映していると考えると、現代本土人は弥生系の遺伝子をおおむね7~8割、縄文系の遺伝子を2~3割もっていると考えられる」と松村准教授。
ところで図2では、九州、関東、東北の現代人集団のいずれもが、それぞれの地方の江戸時代の集団よりも縄文系集団に遺伝的に近づいていることに気付く(北部九州の江戸時代集団は関東の江戸時代集団より縄文系から遠い)。
現代人の歯をみると、プロポーション(大きさの組み合わせ)は弥生以降の集団と相似し、渡来系が優勢であることを示す一方、大きさは江戸時代より小さい。歯が小さいのは縄文系の特徴だが、「大きさには環境などさまざまな要因が影響するため、理由ははっきりしない」と松村准教授。百々教授も形態小変異の変化の背景は不明といい、謎が残る。 (小島新一)
【用語解説】形態小変異
体の機能にはまったく影響のない微細な形態の変異。変異の出現部位(項目)は無数にある。人骨の形質は遺伝と環境で決定されるが、形態小変異は歯の形質と同様に環境に左右されにくく、出現には遺伝的影響が強いとされる。各部位で変異が現れる人の割合(出現頻度)は集団によって異なり、そのパターンが近い集団は遺伝的にも近いとみることができる。
2008.6.23 08:25
前回、関東地方の人々で縄文~現代までの形質変化をみた。他の地方ではどうだったのだろうか。
北海道文教大の百々幸雄教授は今年、北部九州と関東、東北人の時代による変化を調査した結果をまとめた。比較したのは、頭骨の形態小変異のパターンだ。
図1は、各地方の古墳・江戸両時代の集団について、形態小変異のパターンが東日本の縄文人とどの程度異なるのかを統計的にみたもの。縄文的特徴が色濃いとされる現代の北海道アイヌも比較の対象に加えた。比較に用いたのは、縄文人と弥生時代以降の本土日本人の差が顕著に示される6つの部位(項目)の形態小変異の出現頻度。グラフの棒が長い集団ほど縄文人と形態小変異のパターンが異なる度合いが大きく、渡来系の遺伝的影響が色濃いことを示している。
それによると、古墳時代の集団は、東北、関東、北部九州の順に東日本縄文人との異なりが大きくなる。弥生時代に大陸からやってきた渡来人やその子孫集団が、最初に住み着いて人口を増やした北部九州から東へと拡散していった様子が分かる。
前回みた松村博文・札幌医大准教授の歯の研究では、古墳時代の東北集団は分析対象が13体(渡来系が11体、2体が縄文系)と少なかったが、近年に出土例が増え、百々教授の研究では宮城、福島両県の遺跡の32体を調査。南東北地方には、この時代に渡来系の影響が及んでいたことがほぼ確実になった。渡来系が優勢だった西日本起源の古墳の北限が宮城県北部~山形県北部のラインであることは「アイヌと縄文人」で紹介したが、古墳は渡来系集団の移住とともにこの地に広まったようだ。
東北地方には、飛鳥、奈良時代から平安時代中ころにかけて、朝廷の支配権外にあった「蝦夷(えみし)」がいた。彼らをめぐっては、「和人」なのか「アイヌの先祖と同集団」なのかという論争が続いてきた。
残念ながら、彼らの中心的居住域だった北部東北地方からは古墳時代の人骨が見つかっておらず、今回の百々教授の調査対象にも含まれていない。しかし、百々教授は、古墳時代の南部東北集団が関東や九州の集団と比べ縄文系(アイヌ含む)集団に遺伝的に相当程度近く、江戸時代も北部東北集団は関東集団より縄文系に近いという分析結果から、次のように推測する。
「渡来系遺伝子が『西から東へ』と拡散したこと、奈良時代以降の関東などからの人々の移住を経た江戸時代でも北部東北集団が縄文系に近いことを考えると、蝦夷である古代北部東北集団は縄文系遺伝子がかなり優勢だったはず。その後稲作などを取り入れたことで本土日本人社会の一員となり、アイヌ民族となる道は歩まなかった」
渡来人やその遺伝的影響を受けた集団を和人、アイヌの先祖を在来縄文系集団と考えると、蝦夷の系統論争に影響を与えそうだ。
≪拡散の「完成」≫
現代になると、東北地方の集団の形態小変異のパターンは関東や九州とほぼ同じになる。「在来縄文系と混血しながらの渡来系遺伝子の拡散は、本土では明治以降に完成して本土人がほぼ均一化した」と百々教授。
松村准教授が現代関東人の歯を分析したところ、分析対象者数の75%が渡来系、25%が縄文系だった。「混血が進んだ現代では遺伝的に純粋な縄文系や渡来系という日本人はいない。個体の比率が混血率を示すとはいえないが、ある程度反映していると考えると、現代本土人は弥生系の遺伝子をおおむね7~8割、縄文系の遺伝子を2~3割もっていると考えられる」と松村准教授。
ところで図2では、九州、関東、東北の現代人集団のいずれもが、それぞれの地方の江戸時代の集団よりも縄文系集団に遺伝的に近づいていることに気付く(北部九州の江戸時代集団は関東の江戸時代集団より縄文系から遠い)。
現代人の歯をみると、プロポーション(大きさの組み合わせ)は弥生以降の集団と相似し、渡来系が優勢であることを示す一方、大きさは江戸時代より小さい。歯が小さいのは縄文系の特徴だが、「大きさには環境などさまざまな要因が影響するため、理由ははっきりしない」と松村准教授。百々教授も形態小変異の変化の背景は不明といい、謎が残る。 (小島新一)
【用語解説】形態小変異
体の機能にはまったく影響のない微細な形態の変異。変異の出現部位(項目)は無数にある。人骨の形質は遺伝と環境で決定されるが、形態小変異は歯の形質と同様に環境に左右されにくく、出現には遺伝的影響が強いとされる。各部位で変異が現れる人の割合(出現頻度)は集団によって異なり、そのパターンが近い集団は遺伝的にも近いとみることができる。