学習塾の先生をしている兄弟が、教会生活を休みたいと言われたと聞いた。どうしたのだろうかと考えた。
信仰の初期に、神を深く知り成長していくために彼が選んだ学びの方法が、間違っていたのではないかと思う。つまり、救われる前の勉強方法が、回心後に大きく変わることがなかったということだ。自分で努力してたくさん本を読んだり、勉強したりすれば良いのだと考えたのだろう。
どうして、このように思うのかというと、彼がこのように言っているのを聞いたからだ。
「これから伝道に用いられるために、リーストロベルの本を読んで、要点をまとめた冊子を自分で作ったのだ」という声の響きが、ちょっと自慢気であったからだ。
成長させてくださるのは神様だから、自分の知恵と力で努力するのではなく、神様のプログラムに委ねて待っていれば良いのだ。そして、召し、促しに謙遜に応答して聞き従っていたなら、時間がかかっても、神様は確実に成長させて、弟子とお用いになる。
最近、公園で、3人の姉妹が「声掛け伝道」を始めたその報告を聞いていたが、私は、他の奉仕のスケジュールと合わなくて、まだ同行をしていない。それは、十分な伝道の働きができる程に、私は霊的に成長していないからだと思う。
私は、アンドリューマーレーの本を読んでもよくわからない。物事の細かいところがよく見えていない。人がどう考えているのかを識別する力がない。
おお、神様。私の教会の牧師は、長年、原典講解説教をして洞察力、伝道力、執筆力などの賜物が積み上がって来ている方です。そんな尊敬する牧師が牧会している教会に私を置いてくださっている神様に感謝します。
私の今後の信仰生活はそう長くはない。どうぞ、自分で聖書を読むことに熱心でなかったことを悔い改めます。今後、私の霊性が一段上になるように、どうぞあなたが養ってください。
おお、神様。回りの状況をよく洞察して、神様が求めておられる働きに従うことができますように導いてください。
明日は教会に集まる子供達の布団の準備という小さな働きを忠実にさせていただきます。どうぞ、次にはさらに大きな働きにも用いてくださるようにお願いします。