ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

牧会者の痛み、悲しみを読み込む

2024-09-29 23:13:43 | 日ごとの生活

Ⅰヨハネ4:20.21「神を愛し兄弟をも愛す」

 

牧師には、牧会者としての祝福と同時に、痛み、苦しみ、悲しみがあった。このヨハネの手紙を読んだ各教会の牧会者たちは、自分の経験に照らして教えられ、励まされた。そのことが深く理解できた私たちの牧師自身は、確信、喜び、励ましが与えられたことを語られた。

 

私自身も、高齢者の部類に入ってきた。信仰の先輩として、神を愛し、互いに愛し合うことを兄弟姉妹に霊的にお勧めする「小牧者」と言われるような存在にまで成長できたら素晴らしい。
そのためには、もっと神を深く知り愛して、犠牲を払って仕える献身者として、整えられて行く必要があります。

 

嘘や二心、見せかけの愛ではなく、真実なアガペーの愛で愛し合っている教会であるなら、その喜びは溢れ出て、教会外の人々への証しとなる。すると、多くの人が教会を訪ねて来るでしょう。
その人達に、神を愛し、牧師たちを愛し、兄弟姉妹を愛することの弟子づくりを進めて、しっかりとした教会形成がなされて行くことを祈ります。

 

ただ祈るだけでなく、牧師や献身者たちの見えないところでのご苦労を理解して、具体的に愛のあるサポートをして、成長して行きたい。

 

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人をゆるせる人になって行こう

2024-09-28 17:17:58 | 日ごとの生活

日頃から、我を張らず、脱力して、自分に死んだつもりでキリストに聞き従う生活をする。

マタイ18:34の「借金」は、礼拝でいつも唱えている主の祈りの中の「負い目」と原語は

同じでしょうか。(帰宅して調べたら同じでした) 礼拝に毎回出席して、ともに讃美して、兄弟姉妹が愛し合い赦し合う経験を積み重ねる日々の延長線上が天国なのだなあと思いました。

 

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復習は神のもの

2024-09-28 17:14:57 | 日ごとの生活

 

今日のお話の冒頭に、仏教はキリスト教からパクったところがあると言われ、今日の話の中に出て来ると言われた。それはどこなのかな~。

マタイ18章34節の「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」とある獄吏とは、拷問役をする奴隷のことであると聞いた。なるほど、先日、大塚国際美術館(システィーナ礼拝堂)で見た地獄の絵で獄吏のような人が描かれていました。

田舎の寺で、葬式の後、お坊さんが、地獄・餓鬼・畜生、あといくつか、人間が死後に生まれ変わるべき場所があるのだと説明しているのを聞いた。

 

復讐は神ご自身がなさるので、私達は神に任せればよい。確かに神は将来の再臨の時にはっきり裁きをなさるが、この世でも不思議な方法で、私たちが知らない間に裁きをなしておられることを実感する。昔、不正をした医師を何年も怒っていたが、イエス・キリストの名によって赦したら、相手の名前も忘れるくらいにその怒りから解放されていました。

ある時、ふと名前を思い出してネット検索したところ、すでに左遷されていて、今も同じようなことをしていることがわかった。もはや、私はその問題は完全に神に委ねています。

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怒りの感情をコントロールする

2024-09-28 05:48:47 | 旧約聖書

 

 

私は、イエス・キリストを知る前は、すぐにカッとなって怒り、その怒りをずっと長い期間、もちあぐねて、苦しい思いをしていたものでした。私は正しい、相手が間違っている。私が怒っても当然だと、私はずいぶん思い上がっていたからでした。

 

「 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」エペソ4:26   

 

現在は悪に対する「怒り」をはっきり表現しない風潮ですが、聖書は「怒れ」と命令形で書いてある。
神に似せて造られた人間も、悪に対して怒りの感情を持つものです。
しかし、たとい正当な怒りであっても、怒り続けていると、怒っている私がガチガチに堅くなってきて的外れになってしまう。そして、いつの間にか怒られる側に立ってしまいかねない。

 

クリスチャンは、怒りだけでなく、恐れ、不安、その他どんな問題が起こっても、すぐに自分で解決しようとバタバタと行動する必要はない。感情的な言葉を軽々しく発する必要もない。

 

日々のデボーション、神様との個人的な交わりの中で、どう受け止めると良いのかを求めてよく考えるならば、神の守りと導きがわかって来るだろう。キリストは救い主でありまた裁き主でもあります。すべてのことを知って支配しておられることを信頼します。

 

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キリストの内側からの目線で

2024-09-24 10:19:07 | 日ごとの生活

物事を見るとき、自分の立ち位置がどこであるのかによって、見える景色も感じるものも違うだろう。

信仰生活の初期の頃に、大きなホールで中央あたりに座って、創世記28章のヤコブのはしごの話を聞いたことがあった。
それまで、私ははしごと言えば、一人で上がり下りできるサイズを想像していたけど、会場全体が大きなはしごとなって、天につながっているようで、私自身もその中に含まれているイメージが与えられたのでした。

イエス・キリストの洗礼を後、「天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」と書かれている景色を、私は今まで、映画を観るように外側からみていたことに気づきました。


私がキリストと同じようになっているのであるなら、私の目線はキリストの内側からです。
聖霊が、御使いの助けが、私自身の上にに下っているのを、自分の事として見ることになります。


信仰生活を26年をふり返ると、そんなときが実際たくさんありました。そして今もそうです。
やがて、真に天が開いて、イエス・キリストが来られて、ともに引き上げられるのを、本当に体験して見ることができる日が楽しみです。

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