ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

天の御国の弟子となって学者と呼ばれたら

2020-12-05 13:51:50 | 喜び
もし私が、イエス様から
「マタイ13章のこれらのたとえ話と解き明かしが言っていることがみなわかりましたか?」と聞かれたら、残念ながら「はい」とは答えられません。

私は、天の御国の弟子となって、イエス様に学者と呼ばれるように成長したいと願います。そして、自分の中に倉を持って、倉から新しいものでも古いものでも自由に取り出して用いることのできる一家の主人のようになって、人々を伝道して信じるように促したり、信じた人たちに霊的な励ましを与えられる人に成長したいからです。

そこで、マタイ13章のたとえ話がどんな段落になっているのかを分析してみたら大きく三つに分かれていました。
1 話の対象が弟子たちを含めた群衆
2   話の対象が弟子たち
3   後で挿入された文章

たとえ話も群衆に語られたのと弟子たちに語られたのと二種類ありました
1 群衆に 種蒔きのたとえ
2 群衆に 麦と毒麦のたとえ
3 群衆に パン種のたとえ
4 弟子たちに 地に隠された宝
5 弟子たちに 真珠を捜している商人
6弟子たちに 地引網
7弟子たちに 一家の主人 

★群衆への種蒔きのたとえ話 13:3 
実を結ばなかった種 道ばたに落ちた種  13:4 
 岩地に落ちた種  13:5  13:6 
 いばらの中に落ちた種  13:7 
実を結んだ種  13:8 
★群衆―の命令 聞け 13:9 
●弟子の質問   13:10 
弟子達への答 奥義を知ることが 許されている人  13:11 13:12 
                                                    許されていない人  13:13  13:14 13:15 
見ている人、耳が開いている人  13:16 
                               見られず、聞けなかった人  13:17 
弟子たちへの 種蒔きのたとえの説き明かし
実を結ばない人の例1  13:18 
実を結ばない人の例2  13:20 
実を結ばない人の例3  13:22 
実を結ぶ人の例   13:23
★群衆へのたとえ話
天の御国の人たちのたとえ1 麦と毒麦  13:24  13:32 
天の御国の人たちのたとえ2 パン種  13:33 
挿入★★群衆にたとえで話した理由  13:34  13:35 
弟子に話した解き明かし
種蒔きのたとえの説き明かし  13:36--- 13:43 
弟子に話した天の御国1
天の御国は宝のよう  13:44 
天の御国は商人のよう  13:45  13:46
天の御国は地引き網のよう  13:47  13:50 
弟子たちにわかったかと聞いてはいと答えた弟子たちのたとえ  13:51 13:52 
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試練を、最高の喜びとする

2020-12-04 19:29:46 | 喜び
普通は避けたい、逃げたいと思うような試練、試みを喜びと考える、それも最高の喜びと見なすようにと、ヤコブ書の1章2節に書かれていのす。
ヤコブ1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
これは驚きです。そんなことができるのか。その理由が次に書かれています。これがわかったら、その信仰は、初級ではなくて中級、上級ほと向かっているかも知れない。

1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
忍耐とは、「とどまって動かない」
ためされるとは、テスト、本物かどうかを見分けるための試練、検査

私は信仰のテストを経験し、忍耐することを経験し、また次のテストがあり、忍耐することを選択して、「信仰がためされると忍耐が生じるということを、体験的に少しは知ったと言えます。



夫の定年退職と同時に癌が見つかった。そこで、教会の近くの社宅を出て田舎の家に移り住んだ。
夫への伝道と教会生活のためには、田舎の教会に移ろうかも思ったが、母教会に忍耐する、とどまって動かない方を選んだ。毎週日曜日には、10時半からの礼拝に、家を6時半に出て教会に通うこと8年間。

教会に通えなくなった最後の1年間に、夫が信仰告白をして受洗し召された。母教会からの訪問やサポートを受けて、夫を天に送るこができた。

召天式の100日後には、家を売却する手続きをして、母教会の近く転居した。母教会にしっかりとどまって動かないことを決断したのだった。

信仰がためされると忍耐が生じるということ
母教会に通うかどうかだけでなく、信仰がためされることは様々にあった。
夫を在宅で看病して、二人で家庭で信仰生活をするか
親戚の寺の境内の墓の処分すること
寺関係の親戚が多い中で、キリスト教でするお葬式、
建てて10年の家、家具、持ち物の処分
それらを一つ一つ信仰をもってくぐり抜ける中で、ますます忍耐するようになった。信仰が揺らぐことなく、とどまって動かないことが祝福であることを知る経験を積み上げてきました。今は教会のすぐ近くで、さらに祝福された生活をしています。

だから、
さまざまな試練に会うときは、これをこの上もなく喜びと思いなさい。
色々な試練、試み、誘惑に陥るとき、それを最高の喜びと思えることは、ただの理想ではなくて、本当にそうだなと、こんな経験から思えます。

イエス・キリストは、贖い主としての使命を全うするために十字架の苦しみを忍耐された。公生涯は三年半。十字架上の苦しみは六時間、死から復活まで足かけ3日。そしてその報いは永遠です。

私達が救い主イエスを見て、天国を仰ぐ時、この世での忍耐が御国に招き入れられるための信仰のテストだ思えば、報いは最高のものであるから、最高に喜ぶことができると思えます。苦笑いするような生活ではなく、喜び、読めおどる信仰生活を続けたい。
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神のコーリングに答える

2020-12-02 22:35:36 | 喜び
神のコーリングは3段階がある。
1 救いへの召しのコーリング 
2 教会への召しのコーリング 
3生活の場への派遣へのコーリング

私は、それぞれの家庭、職場、学校、地域にあかしをし宣教するために派遣されることもコーリングということを初めて知りました。そして救われのも、教会生活の中で訓練を受けるのも、その目的が派遣されるところにあったことがはっきりしました。

派遣先で神の栄光を現して証しし宣教をして実を刈り取れるようにと、回心をしてはっきり救われて、教会という家庭の中に置かれて、その中で必要なしつけ、訓練を受けて整えられて、今度は遣わされて出て行く

しかも、三位一体の神とともに行くことになることを忘れてはならない。そのためには、普段の日常生活の中で、いつも神に祈り、みことばに聞き、聖霊との交わりを持ち続けて、神の導きに敏感になっていなくてはならない。

なぜなら、宣教は主の働きであり、私達は主のしもべなのですから。朝のデボーションが、聖霊に満たされて派遣され出て行くための、献身の姿勢を整えられる時となるようにと変えて行きます。

教会が本当の永遠の家庭、家族であり、私達は教会から夫や妻、子供達のいる家庭に神の権威と力をともなって遣わされて行き神の働きをする。

霊の赤ちゃんとして生まれて育てられた教会を愛し、何があっても教会にとどまっていないと、神のコーリングを失うことになる。

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鍼灸院の先生に福音を

2020-12-02 18:01:46 | 喜び
最近、ほぼ週に一度会っている鍼灸院の先生。彼は猛烈な勉強をしたとのことで、そっと手や足に触れるだけで、ツボの状態を見極めて体内の血とか気の流れが見えるそうです。

私が最近目がかすみ、疲れていることも、触ったらわかると、ちょっと自慢げに言われました。それはそうでしょう。信徒説教の準備と入力奉仕に励んでいたのですから。

しかし、さらに私の奥には、生けるいのちの水を湧き出させている泉があることまでは見えていません。聖霊を知らないのですから当然です。

私は話を聞いてもらって治療を受ける立場ですが、反対に、先生がどんなに熱心に勉強したか、弟子づくりをしようと採用しても続かなくて寂しいとかの話を寝たままゆったりと聞かせてもらいました。

別の部屋で患者さんが待っているでしょうに、結構な時間、私の部屋に滞在された。そして私が少し自分のことを話すとふと我に返ったように部屋を出られました。

教会のある姉妹が福音を語ったら、プルラリズムのような返答だったそうです。私以外にも、教会から何人も通っています。聖霊が彼の中ですでに働いていることを願います。

医院内には、私が通っている歯医者さんにあるような神社の熊手等は見えませんが、小さい動物の置物がたくさん飾られています。待合室の本箱には生き方を求めるような本も並んでいますが、その傾向は一つではないように見えました。

次週の治療に行く日を、祈って備えて、聖霊が働かれるのを期待して待ちます。


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神のことばが、長いか短いか

2020-12-02 09:43:56 | 喜び
ローマ書12章1-2節を読んだ。アーメンと言ってから、そういうわけでと話が続いている。私は祈りの後すぐに立ち上がって、この世の事を考えていたことを悔い改めた。
 昨日、今日の落ち葉の掃除にしても、神様からの聖霊による語りかけを意識してよく考えて奉仕しようと思った。

 へブル書からの信徒説教のためにへブル書を通読しようとした時、実は自分は聖書を読んでいないことに気付いた。目が見えにくいこともありCDの助けを得て一時間近くもかかって読んだ後、これが「手短」に書いたものだとあって驚いた。
その後、鍼灸院のベッドで横に横になっている時に、「手短」という言葉が思い浮かんだ。旧約のことばと自分達で作った律法を守って来た長い歴史を持つユダヤ人たちにとって、この手紙を聞いて深く理解するなら、その神のことば、へブル人への手紙は、言葉どおりに、本当に短いみことばだなと。

また、私が22年前に、牧師との面談の中で祈りに導かれた学びの時間を取っていただいたことを思い出す。ほんの手短に福音のポイントを教え祈りに促してくださった。それ以降、ずっと聖書を読み続けることになり、牧師の説教を聞き続けることになったのだから、それ以降にいただく情報量は相当に大きく、長く、丁寧なものだった。あの時は、当時の私が理解できる範囲にしぼって「手短」に伝えてくださったのだなと思う。

へブル人への手紙を読んだ人は、それによって旧約聖書のとらえ方がすっかり変わって新約のことばが鮮明になって来て、クリスチャンがどんどんと増え広がって行ったことでしょう。私も福音をきちんて語って、その方の人生が神様によって変えられていくのを見たいと願います。

時々、伝道会での牧師の話が長すぎるから短くしてほしいという要望が信徒から出ることがあるが、それは間違いであると思った。それまでの何十年かの生き方についての見方がすっかり変わり、永遠に信仰生活を続けていくことになるためのターニングポイントとなる貴重な時なのだから、1時間、2時間という時間の単位で測れるものではないと思う。むしろ、神が神の時を導いているのだから、時計の時間を見て牧師を止めようとすることは不信仰なことであると思う。

デボーションによって考え方が変わり、それが行動にまで反映されるためには、みことばによって深く納得説得させられないと、人間はちょっとした決心や決断では変れず、変わったとしても長続きしない。信徒説教がヤコブ書に移った。これから、メッセージを聞くだけでなく、原典から確認して読み進みたいと思う。また誰かとその学びと応答を分かち合い祈り合って、祈りが聞かれることをともに体験するこができるようにと祈り願った。弟子訓練のテキストを一緒にしている姉妹が原典からの学びに興味と関心を持ってくださることを祈っている。


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