早朝に来た看護師と、看取ってくれた看護師が夫のからだが着るものを整えてくださっている間、ガラスの障子で仕切られたダイニングで、私と子供たちはお葬式の相談と協力を依頼しました。
息子はアンチキリストなのですが、感情的になることなく、何とか話は進めることができました。
教会からすでに前日に、私は葬儀屋さんに来てもらって打合せが済んでいたのでスムーズに進めることができました。
教会のある街から私達の住む田舎まで車で3時間程の距離があるのですが、田舎にはキリスト教式のお葬式をしてくれる業者を捜せなかったこともあり、教会の近くの葬儀屋さんに依頼をしていたのでした。
そこまで、何もかもすっきり進んでいたのですが、一つだけ気になっていたことがありました。
それはドクターを呼ぶのが少し遅かったし、孫の到着を待つ間苦しい思いをさせたかなということでした。
私が夫に「ごめんね。麻薬の薬が口の中で解けていなかったから苦しかったでしょう。もう少し早くドクターを呼ぶべきだったね。ごめんね」と言ったら、夫はうなずいたのでした。
だから「最後の判断が遅かった」と叱られたのだと思ったことでした。
そのことが葬儀会社の人が来たときも、夫の兄弟が来た時も、ずっと心にひっかかっていました。
でも、夜になってふと気づきました。夫がうなずいたのは、私の「ごめんね」という言葉にうなずいてくれたのだと。
赦すこと、赦されることを夫から教えられました。夫は少し前に、痛い? 苦しい?と心配する私に、夫は「十字架上のイエス様の苦しみほどではない」と言ったことがあったのでした。
私は今、このノートを大学病院の待合室で書いています。今度は私が治療を受ける番です。神様は一歩一歩従う者に、さらに一歩一歩導いてくださることを確信して喜んでいます。8月20日