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 求めつつ歩むよろこび

2001-04-24 00:00:00 | goo blog
 2001-04-24 00:00:00 求めつつ歩むよろこび
 
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 2000年~2001年度のチャペル・アワーでは同志社女子大学創立125周
年を記念し、「125年を語りつぐ」をテーマに礼拝を実施いたしました。
礼拝での奨励内容は以下の通りです。
 
 ~ 特別編 ~ 求めつつ歩むよろこび    有賀 のゆり(名誉教授)
 
 おはようございます。わたくしは一昨年の3月まで同志社女子大で教
えさせていただいておりました有賀と申します。今日は久しぶりに田辺
のほうに来ましたが、来る度にこの辺はきれいになっております。だん
だん新緑も見え出して、いいなと思って参りました。そして今日は特に
本当に新緑のような皆さんとお話ができるということは、とてもうれし
いことです。皆さんは、小・中・高とずっと次の学校の入学ということ
を目的に勉強して、それぞれの過程を通って今度大学に入って来られた
のだと思いますね。ですから教育課程の中では終盤に入っていらっしゃ
って、もうこれ以上は、大学院にいらっしゃる方もあると思いますけども、
たいていの方はこれでもうあと入学試験はないからと、本当に解放され
た気持ちでいらっしゃると思うのです。そして新しい授業が始まった今、
この学校へいらっしゃって、専攻のそれぞれの課程で、本当に良かった
なあと思っていらっしゃる方もあるかもしれないし、またこんな所へ来
るんじゃなかったと思っている方もあるかもしれません。どんなことを
皆さん考えていらっしゃるのでしょう。気持ちが自由になって、自分は
本当にどういう人間なのかしら、自分はどうやってこれから生きて行っ
たらいいのか、これからの将来はどういうことになるのかなあ、などと
思っていらっしゃる方もあると思います。とても大事な時期なんですよ
ね。皆さんはまだ本当にお若い。まさに青春のただ中にいらっしゃるわ
けです。
 
 こう申しますわたくしでも青春の時代というのがあったのです。わた
くしの青春時代というのは、同志社女子大学通信第15号の中でわたくし
が書いている記事がありますので、もしもご興味がある方はそれを読ん
でいただいたら分かりますが、そのタイトルは「欠乏感の中で求め続け
て」というものでした。わたくしたちの青春時代、それは実は今の女子
大の前身の女子専門学校だった時代なのです。わたしがその女子専門学
校に入ったのは、戦争の、って言うとみんなびっくりなさるんですけれ
ども、太平洋戦争の最後の年ですね。昭和20年、1945年のことでした。
日本中各地で空襲があって、わたしのクラスメイトは皆、伊丹、現在空
港がある所ですね。あそこに軍需工場がありまして、そこに動員されて
働きに行っておりました。わたしたちはその時に高等女学部4年生だっ
たのです。昔の制度でいきますと小学校を終えてから後、高等女学校と
いうのがあったのですが、それは5年間で卒業したのです。でも、わた
したちは戦争のために4年しか勉強していないのです。4年修了です。
しかも本当に勉強したのは3年間だけです。4年目はこの様に動員に徴
用されましたから中学の3年ぐらいしか勉強していないわけですね。大
変に教育が欠如しております。それでも一応4年だけで女専に入学を許
されたわけです。ですけれども普通なら4月に入学式があるところが、
まだ戦争中ですから工場を離れることが許されないので、入学式は7月
の11日に、わたしのクラスメイトは初めて京都に帰ってくることを許さ
れて、今出川校地の栄光館の2階の大教室で行われました。わたくしは
足が不自由なものですから、残留組といって、それまで他にも身体に障
害のある方たちと一緒に栄光館のひと部屋にあります作業所で手作業を
しておりました。一応、入学式はあったのですが、その後まだ空襲警報
が毎日鳴り、敵機がやって来ますから、授業ができなくて家に待機して
おりました。そして8月15日、わたしたちは呼び出されて学校に行きま
したら、直ちに先生に連れられて、今の同大のクラーク館の前に集まっ
たのですね。そしてそこで玉音放送というのがありました。玉音という
のは天皇陛下のお声で、そのお言葉を生まれて初めて聞かされたのです。
でもほとんど聞きとれませんでした。わたしたちはすぐにまた、現在、
改修工事が行われておりますジェームズ館の2階のわたしたちの教室に
戻ってきました。そこで担任の中村貢先生(今その息子さんが庶務のほ
うのお仕事をしていらっしゃいますけれども)、その先生が日本は負け
た、無条件降伏をしたという通告をわたしたちに伝えてくださいまして、
わたしたちは大声を上げて泣いたのです。それまで苦労して耐えて耐え
てきたのですね。戦争に勝つと思っていたのですね。それがだめになっ
たということで、本当に教室中、わあわあという泣き声でいっぱいにな
りました。それからわたしたちはまた家に帰って、待機していたわけで
す。
 
 そして9月の1日に一応、授業開始になったのですが、ちょっと学校
に行ったと思いましたら今度は、進駐軍、つまりアメリカの兵隊たちが
入って来るというので、女の子たちは危険だからと、また家で待機だっ
たのですね。でも予測に反してアメリカ兵は幸いにも紳士的に入って来
ました。ともかくそんなことでやっと授業開始になったのが10月の15日
でした。ちょうど皆さんの後期の頃ですね。さっそく、礼拝が始まりま
した。わたしはその頃の授業のことはあまり覚えていないのですが、礼
拝は朝の10時から10時半でしたか、ちょうど授業の間に行われて、全学
生、全教職員が現今出川キャンパスの栄光館、皆さんが入学式をなさっ
たあの立派な建物の中に入りまして、そして本当に真剣に礼拝をしたの
です。日本中が空襲でやられて、そしてご家族を亡くした方、お父さん
がまだ兵隊に行ったまま復員して来ない方とか、お腹もみんな空いてい
て貧しい人たちばかりでしたけれども、何か非常に求めていたのですね。
ですから礼拝のお話はみんな食い入るように聞きました。そこで話され
た方々は、その時の学長でいらした片桐哲先生や後に学長になられた
滝山徳三先生、加藤謙爾先生等です。それから学外の牧師先生もたくさ
ん来てお話ししてくださいましたが、皆さんが共通して強調されたのは
同志社こそ、これからの新しい日本の要になる一番大事な教育をすると
ころだということでした。それまではわたしたちは全体主義、軍国主義
という一色で教育されてきました。教えられた通りに行動しなければ、
何も許されなかった。全て命令だったのです。全てが天皇陛下の命令で、
自由に考えたり、自由に行動したりすることは許されなかったのです。
 
 ですけれども自由な時代になったわけです。民主主義の時代になった
のです。民主主義というのは一人一人の人間に価値がある、命に価値が
ある、可能性があるということを基本原理にしている主義なのですね。
そしてそういう考え方の基盤になるのが、キリスト教です。キリスト教
では、神様が人間一人一人を造ってくださって、一人一人が神様の愛す
る存在。神様はその一人一人が互いに愛し合い尊重し合いつつ、個々の
可能性を充分にいかして共に生きてくれることを望んでいらっしゃる、
と教えています。新島先生はそのキリスト教を基盤にして同志社をお建
てになった。だから同志社では学生を丁重に扱うべし、と先生はおっしゃ
っていますね。さらに同志社では自由・自主の精神を持った人を養成す
るとおっしゃっています。その意味は、自分勝手な人を養成するという
ことではないのです。神様から与えられた命をあくまでも大事にして、
それを責任を持って育み、その可能性を伸ばす、ということですね。し
かも、良心を手腕に運用する人を養成する。ただ技能とか知識とかに秀
でているだけではなくて、良心をもって行動する人です。良心っていう
のは神様の前に自分が立って初めて分かることなのです。ですから自分
勝手をすることではなくて、神様の前に立って、自分がこれは本当に正
しいことかどうかを判断する。世の中の人がこう言っていても、あるい
は政府が権力を持って命令しても、まず自分の心に聞いてこれが正しい
と思うことを考え、そして実行する人、そういう本当の意味で強い人を
つくりたいと新島先生は願われたのでした。皆さんは、その学校に入っ
て来られたわけですね。
 
 さて私の青春時代は、先程申しましたが一言で言いますと、それはハ
ングリーであったということです。私の仲良しのお友だちに、ハングリ
ーさんという人がいます。彼女はすごく正直な人で、ちっとも気取らな
い。それで顔を見るとすぐに、おはようと言う代わりに、お腹空いたわ
ね。いつ会っても、お腹空いた、って言うのですね。実際そうだったの
です、みんな。だけど、ちょっと大人だからと思ってみんな言わないで
いたわけですが、彼女は口に出して言うものですからみんなが、ハング
リーと呼ぶようになりました。もう少し丁寧に言う時は、ハンちゃんと
言うのです。いまだにそのハンちゃんは、電話をかけてきても、「もし
もし、ハングリーだけど」って自分で名乗るのですね。今だにみんなの
間でハングリーで通ってるんですけれども、これは正にわたしたちの青
春時代を象徴しております。
 
 さて、1年目はほとんど授業がなく、そして2年目、1946年の4月頃
からやっとまともに授業が始まりました。わたくしの在籍していたのは
今の英語英文学科の前身で、その頃は英語科と言いましたけれども、以
前は英文科だったところです。その頃、英語科は一番少数のクラスだっ
たのです。戦争中にはたいていの人は家政科(今の生活科学部)の方を
選んだわけですけれども、変わり者だけが英文科に入りました。その中
には私の親のように、戦時中は英語は敵性語でいらないと言われている
けれども、戦争が終わったらきっと役に立つから勉強をしておいたほう
がいいよ、と勧める様な家庭出身の方が多くて、わたしを含めて全部で
49人でした。でも全く何もなく、教科書もないのですよ。先生方は大変
でした。紙もないのです。それで試験の古い答案用紙の、まだ答案の字
が書いてあるのを裏返して、そして書いた方の名前は墨で消して、その
裏側にガリ版刷りをされるのです。皆さんはお分かりにならないかと思
いますが、先生が尖った金物の先で一つ一つ、謄写用紙の上に字を書い
て行かれて、それを刷るんですね。1枚ずつ。そうしてできたのが教科
書。紙は古いですから所々、破けたり、英語も字が読めないところがい
っぱいあったり、裏の字がちょっと表側に写っていたりとか、そういう
もので授業を受けました。それからもちろん冬は暖房はありません。
 
 今度、125周年の立派な写真集がでましたね。皆さん、ご覧になった
かしら。そしてその歴史的な記録の頁に宮澤正典先生や坂本清音先生等
が本当に素晴らしい解説の文を付けてくださっています。その中の142
ページにわたくしが入学した時のクラスの全員写真が入っています。そ
れは「新しい息吹」と題して戦争直後のことを扱っているページなので
すが、先生方も含めて、みんな本当に寒そうな格好をしてズボンをはい
て集まっています。場所はジェームズ館、現在、今出川の改修工事の行
われているジェームズ館の南側なのですね。そこが日が当たって学校中
で一番あたたかい所だったのですね。だからお天気のいい日はみんなそ
こへ出ていたのです。猫の子のように、そこで暖をとっていた。見たと
ころはなんとも哀れな感じです。わたくしはだからこのごろ、世界中の
いろんな所での避難民、とくにその子供たちの顔や姿を見ると、こうい
うわたしたちの古い時代を思い出すのです。でもこの写真の顔をよく見
ると、みんなけっこう笑顔で楽しそうな表情をしているのです。それは
やっぱり若いからです。青春っていうのは矢張り素晴らしいものなので
すね。
 
 ところで2年目になってだんだん授業が軌道にのり始めると、とても
みんな知識欲がわいてきたのです。それ迄、何にも勉強をさせてもらっ
ていないのですから。その時に、わたくしに一番刺激を与えられた先生
は、日本人の先生では加藤さだ先生という方です。加藤先生は、ご主人
の龍太郎先生とともに英文学の先生でいらっしゃいました。ことにさだ
先生という女性は、戦前にアメリカに留学された方で、本当に生き生き
とした先生でした。その方が、「あなた方は頭が空っぽでしょう。自分
で考えたことがないでしょう。自分の頭で考えなさい」と鋭くおっしゃ
ったのでわたしたちは刺激を受けて、ものすごく勉強を始めたのですね。
同時に音楽にも非常に興味を持ちました。その2年目の秋には戦時中ア
メリカに帰国しておられた女性の宣教師、クラップ先生、グウィーン先
生、ヒバード先生(後の新制女子大の初代学長になられた)3人の先生
方がさっそうとして同志社に帰ってきてくださいました。そして初めて
わたしたちはほんものの英語、生の英語を聞いて、ああ、わたしたちに
もこんな世界があるんだと、急に目の前がパッと明るくなる様な気がし
たのです。また、課外音楽でもわたしはクラップ先生にピアノのご指導
を受け、一生懸命やりだしたものですから、先生は音楽の方へ進むよう
に強くすすめられ、留学への道を開いて下さいました。そこで英語科を
卒業した後、20歳でしたけれども決心をして、音楽の勉強のために一人
でアメリカに行きました。その頃はまだ空の便はなく、船で2週間かけ
て太平洋を横断しました。アメリカで学部と大学院を卒業して帰ってき
ますと、同志社女子大学には既に音楽の専攻が発足していましたので、
教えることになりました。5年後にまた勉強がしたくなって今度はヨー
ロッパに行きたいと思っていた所、ドイツ留学の機会を与えられ、更に
勉強をさせていただくことができて幸せでした。ふりかえって考えてみ
ると、このように求め続けてよろこびを与えられてきたというのは、や
はり青春の学校時代にハングリーであったということに起因する所が大
きいと思います。
 
 皆さんは今、どうでしょうか。ハングリーでしょうか。物はいっぱい
あります。そして本当に便利なものばかり。ですけれども、実際には大
事なものがない、あるいは分からない、ということがあるのじゃないで
しょうか。かえってあんまりいろんな物があって、あまりに情報があっ
てその中で一番大切な本物を見つけるのが大変な時代でもあると思いま
す。皆さんにとっては大変しんどい時代でもあると思います。そして現
在の日本の状態、将来、これから地球がどうなるか、人間がどうなるか、
本当に何か不安を覚える時代ですね。でも皆さんは確実にこれからの世
代を担っていく方なのです。ですから、絶えず求め続けてください。同
志社女子大には、求めたら必ず与えてくださる先生方がいらっしゃると
思います。そして先生方を通して与えられるのは、実は目に見えない神
様のお働きなのですね。求めるのはあなた方です。神様が与えてくださっ
たと思った時に、そこに感謝がわきます。よろこびがわきます。自分が
勝ち取ったんじゃない。神様が与えてくださったと。そしてそれをまた
人にもしてあげたいという気持ちになります。それがわたくしは今朝与
えられた聖句の教えだと思います。あなた方は自分がしてほしいと思う
ことを、人にもしてあげなさい、とそこに記されています。求めていく
ということは、本当はそういうことだと思います。求めているのは、あ
るいは求める事が必要なのは自分だけでなく、人も同じだ、ということ
を分かるところから始めなければならないのです。
 
 私たちは求める際に、まず神の前に立つ事が必要です。神など無い、
信じない、と思っている方もあると思いますが、他の言葉で言うと、愛
の心です。神の愛は通常の人間の智性や感情を越えた、広く、高く、深
く、あたたかい心です。同時に人間同志を結び、人間の中に生きて働い
ている精神の世界です。これはキリスト教だけでなく、仏教でも、イス
ラム教でも、およそ信頼すべき宗教なら説いているところです。その愛
の心に照らしあわせて、自分が何を、どの様にして求めるべきか、を探っ
ていくことが大切だと思います。そうしてこそ、求めつつ歩む真のよろ
こびが与えられることでしょう。
 
 神様は、あなた方一人一人に、今、若さと可能性を与えて下さってい
ます。どうかその与えられた生命を大切に、将来に向けて、本物を求め
て、人と共に歩み続けて下さい。神様が必ずその求めに答えて下さるこ
とを信じて。皆さまの将来に祝福をお祈りしています。
 

 
同志社女子大学 京都府京田辺市興戸/京都市上京区今出川通寺町西入
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http://www.dwc.doshisha.ac.jp/campus_info/chapel/chapel125/toku2.html
《奨励 ~ 特別編 ~求めつつ歩むよろこび 20010423 今出川 0424 京田辺》
 
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