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Art&Blue-Liberalism:青き自由主義 復刻版 など 

アダム・スミスとマックス・シュティルナーの思想を参考にして自由に個人が生きる世を目指す!

Corporate Police State 企業警察国家:新たなる全体主義

2020-09-02 20:02:49 | 政治・経済・社会

世の中の政治を左翼と右翼という単純な一元論の2分割で表すことはできない。経済的な自由と社会的な自由の尺度にわけて二元論的に政治を理解することが政治学や経済学、社会学など社会科学においては一般的である。日本で右翼とばれる集団と左翼と呼ばれる集団は権力の所在、伝統や帰属集団など社会的かつ道徳的な尺度において対立しているが、社会を改正するための手段としての政府による経済活動の統制による計画経済を支持している側面では経済政策の面においてはベクトルとその質量は似通っている。資本主義から生じる既得権益を維持する目的で資本主義を守るために自由な経済活動を推し進めている保守派と、個人の権利の確保と幸福を追求する自由など社会的自由を確保するため個人の経済活動の自由を認めるリバタリアン(自由意志論者)とはそれぞれベクトルが違う。


特に、この前のフランスの選挙においても、旧来の右派と左派の軸では考えられない展開であった。伝統的に裕福層や既得権益者は右派を庶民やマイノリティは左派を支持する傾向にあった。しかし、この前のフランスの選挙においては右派の共和党も左派の社会党も台頭せず、極右政党を名乗る団体とフランスの更なるEUへの統合を推し進める無所属のマクロン率いる親EU派の対立であった。特にフランス社会党が経済への介入による社会福祉の充実よりもEU諸外国との協調をはかるためにもEU経済圏の求める財政支出の圧縮の要求に応じたことが、従来の社会党支持者の離脱につながった。

そこで、この極右政党と呼ばれる政党が日本でいう右翼に該当するものだが。その政党が社会と道徳の面においては伝統への回帰とEUへの融合よりもフランスの国民国家としての存続を強く主張すると同時に、今まで社会党や共産党が支持してきた社会福祉拡大による資本主義からの脱却による(選別的だが)経済的弱者救済を掲げた。また、無所属のマクロン率いる親EU派は社会的には若干リバタリアンに近くフランスを超えた多元社会の実現を約束すると同時に、フランスのEU経済圏への更なる統合を促進するための資本と労働者の自由往来を促進するために国家政府の経済への干渉を減らし経済活動の規制緩和を求めた。


しかしその一方でこの従来のポリティカルコンパスではどうしても図り切れないものがある。それが上表にみられるように思想的には第二次世界大戦と東西冷戦において至極対立していたファシズムと共産主義が計画経済と権威主義を主張している全体主義というところで同じ分類に入れらてしまう。確かにファシズムも全体主義というところでは変わらない。どちらも全体主義政策によって社会を彼らの信じる普遍的な道徳的価値観の統一へ導く手段としての経済統制と政府権威を崇拝する社会共同体の確立による伝統保持と体制維持を推し進める。ただし、その彼らが信じる普遍的な道徳的な価値というものそのものが真っ向から対立しているのである!さらに冷戦後に対等したタリバンやISISのようなイスラム原理主義、そして古くからアメリカに存在する俗世から自らを隔離し禁欲的な社会政策を推し進めつつ自由な経済活動からも背を向けたキリスト教団体。これらの集団もポリティカルコンパスのベクトル的には全体主義に向いている傾向にあるが、共産主義や他の世俗主義的な国家社会主義とは思想信念的には全く別物である。

そして、上図では述べられていないがファシズムの種類も資本主義に対する見解が歴史上存続してきたファシズムによってそれぞれ違いが生じる。資本主義により育まれた巨大法人企業群を容認し保護して政府に取り入るか、もしくは主権はあくまで政府とそれを支える民族集団にあり法人企業群を掌握もしくは解体するかの違いが生じる。それにかつ、教会や寺院による社会干渉を認めるか弾圧するかの違いも生じる。これらひとことで同じ全体主義としてカテゴライズされているが、道徳規範の原則による違いを分けるために、下図のようにこのポリティカルコンパスを4倍に拡張し全体主義を4つに区分けして表示したRedefining the Political Spectrum - The Rational Spectrumがある。




とくにこのコンパスで興味深いことは、従来ポリティカルコンパスにおいて経済政策の尺度の右端は新自由経済を純化した自由競争を前提とした自由資本主義経済であるが、この再考察されたポリティカルコンパスにおいては競争により生き残った少数の企業による独占が進み資本主義から自由がなくなり市場が独占的になった自由が制限された資本主義であるCorporatism:法人主義が浮かび上がる。イタリアで台東したムッソリーニ率いるファシスト党は選別された法人企業群が独裁政府と共闘し市場の独占を約束させていた。一方、東西冷戦が終わり経済のグローバル化と譲歩技術の発達による強力な法人企業群による市場制圧は、一部の選び抜かれたほ人企業群が資本力を増強し国家政府への干渉が可能になるぐらいの政治力をつけることによる政府に対する発言権と制御力をもつにいたる経緯は、ファシズムとあゆみは違えど政府と企業群が結託する面においては似通っている。


上記図のように、レーガン政権からクリントン政権のアメリカは巨大なほ人企業群がある程度の経済活動の支配権を握ることはできていたが、まだ新しいベンチャー企業群が台頭し競争に参入する許容力はあり全体的な経済活動も活性化していたため誰でも努力し成果を出せば富を生み出せる経済的自由は確保されていた。しかし、ブッシュ政権時代になると、ほとんどの企業は市場競争にて淘汰され一部の巨大な法人企業群が生き残り既得権益を享受する状態になり、蓄えられている資本の総量は大きくともその循環が抑えられ大多数の個人等の経済活動の自由が奪われていった。これが、共産主義やナチスなどの国家社会主義もしくは宗教団体の圧力などの政府介入による経済活動における行動の自由の制限ではなく、資本主義の肥大に対して介入をするのとは対極で放置することによって生じた現象である。自由資本主義の戦国時代にて他を淘汰し生き残り既得権を掌握した少数のエリート法人企業群が幕府を形成したともいえる。そしてアメリカだけでなくそれが世界経済のグローバライゼーションを通じて世界に広がった。

このコーポラティズム(法人企業主義)はファシズムのほど社会的な干渉はしてこない。確かにブッシュ政権そのものは宗教を通じた伝統的社会概念への回帰を支持していたため権威主義に近い立ち位置ではあるもののファシズムのような独裁ではなく、言論の自由や国民主権の民主主義はある程度制限されたものの根本的な禁止はされていなかった。だが、政権の性格の毛色にかかわらず、すでに経済環境において政府が否応なしに少数の法人企業群の影響下に置かれていた。そのため、大多数の個人等にとっては経済活動の自由を奪われ経済格差が広がり固定化されたことによる資本力を通じたことにより政治への発言力が低下した。そして、今現在のトランプ政権はエリート法人企業の経営者がそのまま大統領になったコーポラティズム(法人企業主義)そのものの政権と言えよう!

しかし、これでは自由主義経済が逆説的に自由を殺すという社会主義者たちの言い分を強化してしまうことになってしまう。しかし、それに対して我々リバタリアン(自由意志論者)は真っ向から否定をする。それは、断片的な自由である経済的自由が温存されていたとしても、個人が政府だけでなく企業による圧力を退け声を上げて個人の権利と幸福の追求を主張し行動に移す社会的自由が阻害されていたことが要因であると主張する。本来の自由主義において、個人が私有財産を所持し必要なもの欲求するものを対価を払って得る権利そして移り行く世の中において道徳的価値観を個人の自由な思考力をもって柔軟に取捨選択し鼓動するための手段としての経済的な自由である。そのため、世間一般に正しく普遍的な道徳と思いこまされているいかなる大義名分に左右されない行動と思考の自由を政府、宗教団体、そしてほ人企業群から守り抜く社会的自由も何より尊重しその自由権利を堅持することがいかなる全体主義に対する抑止力となっている。


上記はNationStatesの3次元ポリティカルマップである。この図においても、経済的な自由が確保された状態においても、社会的自由と政治的自由が阻害された場合には全く別の政治構造が生まれることを示している。そしてこのNationstatesにおいて強調されていたことは恐怖政治といえば今でいう北朝鮮のようなPsychotic Dictatorship (病的な独裁)が思いつくであろうがある意味それより恐ろしい存在として Corporate Police State (企業警察国家)の存在を挙げられている。

この企業警察国家においては、金正恩総書記率いる北朝鮮労働党の代わりに、少数の企業とその経営者エリート集団によって経済活動だけでなく政治的決定権も掌握されるという政治体制である。これが病的な独裁より怖いところは、激しすぎる経済活動により自然環境への問題が深刻になりかつ少数の企業集団によって居住区の半場強制的な移転も頻繁に起こることである。さらに、資本力の強弱の階層が複雑になり、所有権の強弱もより複雑になり、個人にとって欲求不満が募りかつ他者に対する嫉妬も膨れ上がりストレスが増大しやがては社会問題が多く取り上げられるようになる。それに加えて政府が買収され多数の個人が政治活動への参加が制限されるので、状況の挽回がほぼ不可能になる。


この状況を想像するには最近リメイクされたファイナルファンタジーⅦの新羅カンパニーにより征服された世界が一番想像するに容易いだろう。今までのロールプレイングゲームの悪の支配者といえば封建的な専制君主国家かヒットラーや金総書記のような病的な独裁者たちであったが、このファイナルファンタジーⅦにおいては時代を先取りし法人企業の経済のみならず政治の独占という現世の行く末を描いている。 このスクウェア社(現スクウェア・エニックス社)の現世を観察し未来の行く末を憂いて描いた世界観には感服する。

しかし、ファイナルファンタジーⅦに出てくる新羅カンパニーによる企業警察国家はまだクラウドやバレット、彼らの仲間たちであるアバランチのレジスタンスたち有志が複数反乱軍として募っている状況である。その反乱鎮圧のために新羅カンパニーは独自の武装警察隊を行使しているが、それはまだ抵抗するだけの気力のある勢力が残っている希望ある状況である。それに、ティファとエアリスのような性格の良い美女が反乱軍の主人公クラウド側についているから、まだ戦っている最中でも気を許せる憩いのパートナーがいるわけである。

それと打って変わって、オルダス・ハクスリーが1932年に発表した Brave New World すばらしい新世界の企業警察国家は希望がない状況である。なにせ、世界規模の戦争やレジスタンスによる奇襲を消滅することに成功しているからである。平和な世界といえば聞こえが良いが、すべての人間が造反するだけの意志そのものが削がれた状態なのである。唯一、文明から隔離された蛮人保護区で育った蛮人ジョンのみがこの全体主義の世界に懐疑し嫌悪感を抱いていた。それでいて、ヒロインのレニーナ性格の良い美女レニーナは完全に政治体制に洗脳され、ジョンのロマンチックな恋心を受け止めることができずジョンは絶望にさいなまれた。エアリスとティファが傍にいたクラウドよりはるかに悲惨である。

そもそもこの Brave New World すばらしい新世界とは、世界大戦の混乱のあと世界統一政府が登場し世界中で資本主義が発達した世の中になり、過度な消費社会の中で瞬時の享楽におぼれ、無意識に市場と社会を独占する企業群の意向に支配されていった。その中で、国家共産主義のように宗教だけでなく歴史や文化など伝統的なものはすべて廃止され、さらにポルポト政権型共産主義のように家族も解体され、やがて人々は試験管から生まれ組織に管理され育つようになった。人々は生まれたときからその生まれ持った能力に応じて5段階の階級に分類差別化され、生まれたときから幼児期の間の洗脳教育によりその社会構造に疑問すら抱かなくなった。自分が貧しく優遇されないのは自分の素質の問題であり逆らうことは社会の歯車を壊す絶対悪だと思い込まされている。

企業の生産活動に従事した市民はその労働対価をもらい、労働の苦痛を消費活動により得られる瞬時の快楽により満たし、そしてまたその糧をえるために労働へ駆り出される。市場がすでに一部の少数の企業に独占されているため、新しいビジネスモデルも生まれず、社会システムとそれを支える少数のエリートのために他多数は好きでもない労働をし続ける。少数派のエリートたちも今の待遇に満足しこの淡泊な現世に対する懐疑思想やニヒリズムが生まれる余地がなく、彼らも職種や待遇は多数派とは違えど日々社会システム維持のために忙殺される。 消費可能なあらゆる快楽は提供されているが、それでも精神的に落ち込んだときには配給で支給されるソーマという二日酔いのない酒の高揚効果とと宗教を信じる自己陶酔効果を併せ持った副作用のない麻薬を服用し、この世の痛みを忘れる。故に、万人が忙殺され造反する意思が削がれ、暴力による造反が起こる余地がないため警察が凶器で武装することもなくソーマ(副作用のない麻薬)ガスのみ装備し、戦争のための軍隊は必要とされていない。

この Brave New World すばらしい新世界は上記で述べた企業警察国家がさらに進んだ究極の姿である。王が統治する封建制度や暴君が統治する専制君主制のような今までの全体主義とは違い、この新たなる全体主義である企業警察国家は、消費活動から得られる快楽とその対価を得るための労働による忙殺によってこの政治制度に対する懐疑心と反抗意志を削ぐことができる。また、独自のネットワークによる監視体制を張り巡らし抵抗する可能性がある個人を特定し、その個人を精神病とみなし心理カウンセリングを称して意図的な洗脳を行うか麻薬を処方するように誘導する。そして生まれた家族や地域による個性が奪われ、宗教や文化活動が弾圧され信仰の自由が奪われたとき、一部の企業が市場を独占する法人資本主義とスターリン主義的な国家共産主義が合わさったRedefining the Political Spectrum - The Rational Spectrumの右下部分に示されるべし Brave New World すばらしい新世界のような世界ができてしまうだろう。

ふと上記のフィクションの世界は現実化する恐れがあるように思えることがある。特に日本の企業で働いていると我々はすでに企業警察国家体制に組み込まれている自覚ができる。自分にとってやりがいや生産性があるのか疑わしい納期のプレッシャーと難儀な業務そして社内の複雑な人間関係から生まれる苦痛を労働対価によって癒すがまたその糧が尽きてその糧をもとに苦行ともいえる労役へ戻る。もしその体制を覆そうならば裁判に持ち込まれクビになるか最悪有罪になる、それか精神科に送り込まれカウンセリングさせられるか薬を処方される。そして日本の女性の多くがレニーナの如くより世の中の上層部にあたるエリートが運営する企業を選び気に入られるよう励み、人間そして女性としての能力とその人生をより多くの糧を与える少数の上層部エリート集団のためにささげる。自分の所属する階級とその待遇に疑問を抱けば、自分はそれ相応の能力しかなく自らが望んで必然的にその地位にいると諭される。

むろん、法人企業群の存在が悪いわけではなく、むしろ自分ら個人たちのための生産的活動と生活と余暇、文化的活動のための対価そして自分の思い描く未来のためのなにかしらの活動を行う有益な存在である。ただ、今現状の世の中では、切磋琢磨しあえる新しいビジネスが生まれにくく、温存の企業が新陳代謝をあげたり新技術を取り入れるだけの余力がない状況がその有益さを削ぐ状況に陥れている。少数の大企業で組織された一部の営利団体による市場の独占が進みかつ政治を牛耳っている状況では、富の循環が停滞しやがてその停滞が社会的活力を奪う。そして、その状況に懐疑しようものなら自己責任を押し付けられ窮地に追いやる制度が確立されているように見える。

あの経済学と資本主義経済の父と呼ばれるアダム・スミスも企業と個人の折衝の瀬戸際から真の自由経済とその発展が見込めると説いていた。良識と呼ばれているものが企業側や世間が諭すものだけでなく、それに個人があえて懐疑しある程度自己中心的な意見を主張し権利を獲得して初めて経済的自由と発展が生まれる。故に多少非常識と罵られ嘲笑されてもクラウドや蛮人ジョンのように気高き蛮人として自分をさらけ出す必要がある。そして、政治を経団連の支配する政治から脱却し、それぞれ市民個人たちが声を上げて主権を取り戻していかなければ、やがて上記のような全体主義に陥ることになるだろう。



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