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賤ヶ岳合戦時 羽柴秀吉の本陣(木之本地蔵院)

2019年02月26日 | 陣城


お城のデータ
所在地:長浜市木之本町木之本165 map:https://yahoo.jp/0_iVts

現 状:寺院
区 分:陣城(秀吉本陣)
訪城日:2018.5.25

お城の歴史

1583年(天正11)4月、近江の賤ヶ岳(滋賀県長浜市、標高422m)で、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。近江、美濃、伊勢などで起こった局地戦の一つ。
近江から山路を縫い越前に出る北国街道上の木之本、東野、柳ヶ瀬辺の道路に沿った高地を含む地区での争いの決勝戦。
1582年の本能寺の変ののち、羽柴秀吉の勢力が盛んになると、秀吉と織田家の古老柴田勝家との対立がしだいに表面化した。秀吉は織田信長の次子信雄(のぶかつ)と、勝家は信長の三子信孝(のぶたか)および滝川一益と結び、両者の激突は必至の形勢となった。同年12月、秀吉は勝家の属城長浜を降し、信孝を岐阜城に囲み人質をとった。翌1583年正月、一益が伊勢に挙兵。秀吉は2月伊勢に出陣する。勝家は前将軍足利義昭と後援者の毛利輝元と連絡し、秀吉の挟撃を企てる。
そして一益に呼応し、3月10日すぎには柳ヶ瀬北方の内中尾山に出陣。伊勢から軍を返した秀吉は、3月17日賤ヶ岳一帯の高地を占領し、木之本に陣した。そして岐阜の信孝の動きを知ると、4月16日に大垣に入城。20日正午ころ勝家軍攻撃の報を受け、2時ころ転進、9時ころ木之本に着き、翌21日早朝、佐久間盛政(もりまさ)軍を追って賤ヶ岳で撃破、正午ころ勝家を攻め、これを越前に敗走させた。秀吉の小姓9人、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、桜井左吉、石河兵助らによる「七本槍」の功名はこのときのことである。秀吉軍は長駆、越前北庄(福井市)を攻め、24日勝家を自殺させた。信孝は自殺、一益は降伏、小牧・長久手の前哨戦となる。
 勝家の組下前田利家の裏切り説は?
  激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される

参考資料:Wikipedia
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