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下山田城 近江国(長浜 高月町下山田)

2018年05月21日 | 山城
 下田山城
 下山田城は小字城山にあって、築城期は不明であるが当地の豪族山田氏の居城である。山田氏は京極氏の家臣にて類題京極家の執政をつとめた家筋で大永年間(1521~1528)以降の京極氏没落後山田越中守清氏、同上野介清頼親子ともに浅井氏に属せず京極高清、高延を補佐して忠節を尽くした。清頼の子阿波守清良しもまたまた京極高広の執政となり、一族喜兵衛尉清信は浅井滅亡後明智光秀に仕え、同平衛尉直政は京極氏時代より坂田郡村居田に知行を給せられていた。(日本古城友の会幹事 吉田修)

お城のデータ
所在地:長浜市高月町下山田 map:https://yahoo.jp/2MOPlS(遺跡ウォーカー)
現 状:山林・山腹、平削地
区 分:山城
築城期:室町時代
築城者:山田氏
遺 構:土塁・城道?
標 高:156m 比高差:40m
目標地:山上水道タンク
駐車場:下山田集落(山上水道タンクへの山道下の空地)
訪城日:2018.5.20

お城の概要
 山田山山魂の西端(山田山の西部山域)下山田集落の背後の位置する。
室町時代後期(戦国時代)おける覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の西部山域に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となったと(信長公記)に記す。
下山田城は、長浜市中北部の山田山の西に舌状に張り出した馬上集落と下山田集落の境中腹・高時川の東岸に位置する。北で高月町雨森、東で上山田、南で湖北町二俣、西で高月町落川・高月町渡岸寺・高月町柏原に接する。北陸往還が東南から西北に走りるに向かって分岐している。山田山の西麓の馬上集落の東側背後の山頂部(標高:202m)に主郭部には、馬上山城を持つ。
下山田城(136m)の馬上山の中腹位置する。
馬上山の浄水場への林道を登る途中で、西端の遺構は僅かな残るが、広大な城域?は大半は重機で削減され無残であるが、植樹がされている。

お城の歴史
『淡海国木間攫』には、坂田郡 下山田村
 「古此所ニ山内太郎左衛門ト云武士居住、頼朝公ニ仕官ス、江陽一国ノ山奉行タリ、文治二年十一月十三日頼朝公ヨリ此谷ニテ二百貫地ヲ賜ルト云、後孫当所ヲ不去シテ秀吉公ニ仕ヘ、姓名ヲ山田ト可改由命アリ、依之改名ス、事ハ草野庄野瀬村大吉寺ノ縁起ニ出タリ、後孫今以此村里ニ残レリ、開称寺其外土民トナリ、林右衛門・久右衛門等ナリ、賤ヶ嶽一戦ノ切ハ秀吉公山田久介宅へ立寄ラセ玉ヒシ由、其節ノ膳碗等樽今作右衛門ト云者所持アリト云、是ハ山田氏ノ本家タリト」と記す。
 (中略)「1.東本願寺宗 五村御坊付 開称寺 
     当寺ハ昔山内氏ノ孫ニテ山田ト改メシ人住職アリト云」ときる記す。
 下山田城は、当地の豪族、山田氏(山田越中守清氏、同上野介清頼)の居城。京極家の執政を務めた家柄。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 下山田 住 佐々木浅井隋兵 山田掃部介・下山田 住 山田遠江守・下山田 住 山田帯兵衛」と記す。。
小谷城攻防に当たり、山田山一帯(下山田集落)は織田軍の佐久間信盛、柴田勝家らが布陣し、朝倉勢の援軍を阻止するために設けられ戦場です。
これにより朝倉の援軍は小谷城に近づけず引き返すことになります。家臣の寝返りもあり、小谷城攻略の重要なところ。
信長公記 巻六 元亀四年
11、決壊  阿閉謀叛の事
 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城①へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山②に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山③方面に布陣しなければならなかった。 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。  ①現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 ②現湖北町下山田 ③現余呉町~木之本町
12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事
 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山①の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。  ①現滋賀県木之本町内
 
小谷山西端の林の中の遺構らしきものが!
また北に馬上山城
虎御前山(虎御前砦)

下山田城遺構


『天文三年浅井備前守宿所饗応記』(佐々木哲学校に)
「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)
山田清氏 【日本の武将】
京極氏家臣。官途は越中守。玄良と号す。初め京極高清に仕えたが、のち浅井亮政に属した。「長岡村郷野家文書」に登場し、同史料には一族と思われる山田清頼とゆう人物も見られる。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州佐々木南北諸士帳』『淡海国木間攫』『信長公記』、佐々木哲学校、日本の武将
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